法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

在特会の暴力事件は、嫌韓流から予想された帰結

現在の在特会は、暴力事件を起こしてはばからず*1、様々な主張もインターネット上ですぐさま批判されるようになっている。在特会にばかり注目しては、日本社会全体の排外主義が切断処理されてしまう、という懸念まで指摘されるくらいだ。
「在特会に対する切断操作はよくない」のは、在特会がかわいそうだからでも、かれらの言論の自由を尊重するためでもありません。 - *minx* [macska dot org in exile]
もはや、嫌韓感情を堂々と表明する者からさえ切断処理の対象になっている。
あまつさえ、あたかも在特会嫌韓流に関する異端であり、便乗であるかのように主張する者もいる。だが、それは明らかに誤りだ。
在特会が切断処理の対象となるほどの反社会性を持った原因は、あらかじめ嫌韓流に内在されていた。そしてそれは一見して形式的には正しい理念として深く根づいており、様々な捏造発言や排外主義を批判するだけでは不充分だった。


まず基本事項として、在特会を代表する桜井誠氏は、嫌韓感情を煽る様々な書籍に関わっている。それも後発ではなく、『マンガ嫌韓流』を端緒とする流行の当初からだ。
たとえば『マンガ嫌韓流』を出版した晋遊舎から、極初期に副読本として『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル』を出している。これは同じ出版社の関連書籍という立場にとどまらず、逆に『マンガ嫌韓流2』*2で参考文献の一つとして使われているくらいだ。
マンガ嫌韓流』の作者である山野車輪氏も在特会に関わっており、マスコットキャラクターをデザインしている。
個人として桜井氏が執筆活動を続けているなら、団体と切断処理することも可能かもしれない。だが、私が知る限り桜井氏は基本的に在特会の名前を出している。


もちろん、後に様々な問題行動を起こすとは思わず、意見に対してのみ賛同したという意見もありうるだろう。
実際にも、当初の在特会はあからさまな差別や暴力を排すると標榜しており、一時は帰化した在日韓国人が参加するほどだった。
もちろん誤謬や偏見に満ちた主張は当初から行っていたが、それらは現在でもさほど切断処理の対象とはなっていない。まさに日本社会に遍在する偏見を反映し、延長した存在というわけだ。
さらに、『マンガ嫌韓流』が表明した、よく知るところから「真の友好」がはじまるという理念自体は、嫌韓流の誤謬を批判する者からも賛同しうると思われている。だが、これこそが在特会の反社会性に繋がる道だ。


きっと誰でも思春期のころに強く感じたことがあるだろう。周囲が嘘をついていること。報道が嘘をついていること。社会が嘘をついていること。
確かに、社会は嘘に満ちている。迷信も偏見も、信じたい者がいる限り、いつまでも生き残る。だから嘘をあばこうとする意見に興味を引かれる。それ自体は自然な感情だし、むしろ個人的にも賛同したい態度だ。
だが、社会に流通している意見を批判しようとすれば、相応の論理や根拠が要求されることを忘れてはいけない。誤った論説を排することを理念とし、幾多の論争や根拠を積み上げてきた学問を批判しようとするならば、なおさらだ。


嫌韓流の要点として、韓流への異議申し立てという体裁をとっていることがあげられる。すでに存在した文化交流や歴史学の厚みを否定した上で、真の友好を提示しようとしていたわけだ。しかし社会の嘘をあばこうとしながら、相応の努力をおこたった、ただの陰謀論にすぎなかった。破綻は時間の問題だった。
いや、たとえ主張が破綻しても、真の友好を求めているだけならば誤りを撤回し、現行の友好を支援すれば問題は起きなかったはずだ。だが実際には、現行の友好を否定する心情が嫌韓流の正体だったのだろう。まれに自身の誤謬を認めても、その分だけ現行の友好に正当性があるとは認めるとは限らなかった。嫌韓流にとって「真の友好」とは、現行の友好を好まないがゆえに仮想されたものにすぎなかった。
社会に通用しない主張を継続しようとすれば、反社会的な性格を帯びるのも当然だろう。


前世紀末に世界の破滅を予言した者は、当初は社会に対する善意の警告を装っていることが多かった。しかし予言が外れた時、喜ぶどころか落胆の表情を浮かべることが少なくなかった。
現行の「知」を否定した上での「知るところから真の」という主張は、相対性理論や進化論といった既存の学説を、ただの思いつきで否定する疑似科学でも、よく見られる態度にすぎない。たとえば、身体障碍を乗り越えて研究を行うホーキング博士を形ばかり賞賛し、学説を否定する疑似科学書があった。科学的な手続きをとらずに思いつきで業績を否定すること自体が、極めて失礼な態度と気づかずに。真面目にホーキング博士の理論へ異議をとなえる者ならば、わざわざ身体障碍を乗り越えたことを賞賛する必要はない。
日本社会の抑圧を不可視化する危険とは異なる観点から見ても、在特会という存在は、普遍的な問題の象徴なのだ。つまり在特会は社会の反映であり、社会への反抗であり、おそらく全ての人が持つ両面の現われだ。どちらか一方の観点から論じること自体は誤りでないと思うものの、もう一方の観点があることを否定してはなるまい。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20091019/1255970619で簡単に言及した。

*2:ちなみに、この2作目以降は内容の正確性を保証しないという断り書きがされている。マンガ『ヘタリア』への抗議に対してフィクションを信じる者はいないという批判があったわけだが、そうした批判者が同時に『マンガ嫌韓流2』以降をノンフィクションとして受容している姿は珍しくなく、実に皮肉だった。