法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

マンガ神の誕生について

公式二次創作マンガ『PLUTO』も面白いし、手塚作品は過去の名作としてだけではなく、素材として現代でも通用しうると思っている。手塚プロの売り方が下手なだけで。
たとえば、色々と映画化が不評だった『どろろ*1より、『時計仕掛けのりんご』あたりの短編こそ、まず実写映画化するべきだったのではないか。長編を刈り込んで薄っぺらくしてしまうより、よほど閉鎖環境サスペンスとして作り応えがあると思う。作品に箔をつけたい意図もわかるが、まず実写映画化に向いているかどうかを考えるべきだったろう。『どろろ』自体は、特に難しい特撮も必要なく、自主規制さえ無くせられれば連続時代劇として仕立て直しやすいと思うが。


さて、本題の神格化について、少し前から思いついていることがある。
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090822/1250974185
結論から先に書いてしまうと、先頭に立ったジャンルで一度は後進に追いぬかれ、そうして時代遅れになったと思われた後に復活を果たしたから、手塚治虫は漫画の神になれたのではないだろうか。
つまり、後進に追いぬかれていた時期に、巨匠や大家として一線を退いた立場で発言し、ジャンルの対外的な顔になったことが重要。内向きの存在では時代を超えた神にはなりにくい。
かといって実作から離れた立場で大きな顔をすれば、新しい作家や読者から分断されてしまう。そこで手塚治虫はジャンルの対外的な顔になれるだけの力を、内部に対しても実作で証明してみせた。
手塚治虫は、これで死ぬより前に神として完成したのだ。


類例としては、美空ひばり辺りだろうか。マンガやアニメでいえば、松本零士富野喜幸に抜かれ、『カリオストロの城』で惨敗した後に『風の谷のナウシカ』で復活を果たした宮崎駿が、手塚治虫の後を追いつつある。『機動戦士Vガンダム』の商業的失敗で干され、『新世紀エヴァンゲリオン』以降のアニメブームで発言権と仕事の場を取り戻した富野喜幸にも似た印象がある。
逆に、力道山等が神格化されていない理由でもある。偉大な歴史上の一コマとして扱われても、映画のような題材にはなりえても、本人が今も神として扱われているわけではない。マンガやアニメでいえば、たとえば大友克洋は現状のままだと神になれないだろう。


さて、もし上記の理由が当を得ているならば、藤子・F・不二雄が神になれないわけもわかる。後進に抜かれていないから。文化人として、一線を退いた大家として発言するより前に、最前線へ戻ったから。そして没後の今も作品が商業的に最前線で扱われているから。
正確には藤子・F・不二雄も、『ドラえもん』を連載開始する直前まで、いくつもの連載が打ち切られて干されかけていた。『ドラえもん』のアニメ化も一度は失敗した。しかし『ドラえもん』で復活した以降の時間が長く、干されていた時期を思い起こす人は滅多にいない。異色SF短編を『SFマガジン』等で発表していた時期であり、マンガ家の業績としては重要な時期なのだが*2
いくつかのエッセイ的な文章も残しており、文化人的な評価も可能なはずだが、これも今は忘れられている気がする。作家は作品で語るべきで作品外の発言を重要視するべきではない、という意見もわかるのだが。
神格化されて時代性を考慮されながら評価される作家と、現行で消費されながら日の当たらない部分が多い作家。どちらが幸福なのだろうか、少しばかり悩んでいる。


そして現在、かつて差別表現とされて自主規制の対象になっていた『ジャングル黒べえ』までふくむ藤子・F・不二雄全集が刊行開始されている。『ドラえもん』だけではない様々な側面を持つ存在が、久しぶりに表に出ようとしている。
もしかしたら今こそが、一人のマンガ家が神格化されつつある過程なのかもしれない。

*1:現代劇として比較対象にするなら『MW』だろうが、原作と映画宣伝しか見ていないので。

*2:時代遅れと見なされていた時期、時代性を考慮してさえ評価が難しい作品を濫発していた手塚治虫と対照的。