法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

そもそも藤子F作品って『ドラえもん』に限らず、集団に従属することへの不信感があるよね

もちろん大日本帝国に対しては、戦時下において抑圧された子供として育った意識もあるし*1、漫画文化への抑圧を知っている手塚治虫*2を師としてあおいだ意識もあろう。
戦争そのものの無意味さという観点からは、あえて超常の存在による日本軍の勝利を描いて、史実における勝利の不可能性を逆説的に演出したSF短編『超兵器ガ壱號』がある。

ただ、実際に出兵して現地における日本軍の加害まで知って描写していた水木しげる作品*3と比べると、あくまで後方での苦難の記憶にとどまる。
そこで他の漫画家にない個性をさぐるため藤子F作品を読んでいくと、個人の理想や自由こそ描いても、自由を抑圧する大義は信用していないという一貫性が見えてくる。


身近な物語においても、肌感覚で権力への懐疑を描きつづけていた。
のび太が野球にさそわれるエピソードでは、野球をやりたがることもあれば、野球をいやがることもある。どちらにしても自分が楽しみたいと考えて、思い通りにならないことを残念がる。
同時にジャイアンズというチームが勝利するという全体目標については、まったくモチベーションを持っていない。チームをひきいるジャイアンの横暴な目標と考えて、距離をたもって白眼視すらしている。
なお、のび太が女子チームをひきいてジャイアンズに対抗しようとするエピソード「ジャイアンズをぶっとばせ」も初期にある*4。そこでののび太は横暴な監督としてふるまってしまい、チームから追い出されてしまう。ジャイアンズの問題をジャイアンの人格固有のものとはせず、権力をもつことの危険性そのものを描いたわけだ。
明らかな悪人でなくても権力をもつことで暴走する危険性は、疑似国家を運営する短編「のび太の地底国」においても明確に描かれている。優秀な理想主義者ですら独裁者としてふるまいかねないことも、少年向けSF短編『宇宙船製造法』で印象的に描かれていた。


一方で、戦闘の全てを忌避しているわけではない。
圧政や侵略への抵抗において、さまざまな策をろうじた時、戦闘という手段も選ぶことが何度もある。『大長編ドラえもん』においては、『のび太の宇宙小戦争』『のび太とアニマル惑星』『のび太とブリキの迷宮』等で描かれている。そこに第二次世界大戦の日本がふくまれないというだけだ。
ただ例外的に、地球のシミュレーションで架空の日本史を追体験する『のび太の創世日記』という作品はある。クライマックスは戦前日本そっくりの時代で、のび太そっくりのシミュレーション内キャラクターが南極探検したところ、人類に追いつめられていた昆虫人類に敵視されるというもの。最後はシミュレーションマスターであるドラえもんたちが助けて和解するという結論だった。
映画ドラえもんオフィシャルサイト_Film History_16
いささか箱庭的な顛末であり、娯楽として爽快感に欠ける感はあった。アニメ映画では、戦端が開かれた場合のイメージシーンを描いて、戦闘シーンの代替としていたほどだ。それでも架空日本の帝国主義的なふるまいにおいて、戦端が開かれることなく収拾されたことは、作者の見識ではあったろう。

*1:疎開生活を描いた『ドラえもん』「白ゆりのような女の子」が有名。

*2:実体験にデフォルメを加えた短編「紙の砦」等が有名。『ぼくの描いた戦争』手塚治虫 - 法華狼の日記

*3:水木しげる死去の報 - 法華狼の日記

*4:リニューアル後のTVアニメでは30分枠いっぱいの中編として映像化され、原作の問題意識をよりふくらませていた。『ドラえもん』ジャイアンズをぶっとばせ - 法華狼の日記