法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ヘタリア』読者の責任〜コメント用〜

『ヘタリア』作者の浅さと、読者の責任と - 法華狼の日記のコメント欄が伸びたので、続き用。


主張を簡単に再提示しておく。
歴史を題材として物語を作ることも、もちろん許されるべきだが、相応の批判は覚悟しないとならない。
同時に、それ以外の表現が存在しないのであれば、他者を傷つける表現を用いることも許されたいと願う。


補足として、『アドルフに告ぐ』という手塚治虫作品の話をしてみよう。古く有名な作品なので、結末の展開を一部明かしながら紹介する。
ナチスドイツがユダヤに対して行ったことの歴史を、ユダヤ人とゲルマン人、二人のアドルフ*1の友情を通して描く物語だ。そしてユダヤ人らを虐げてきたナチスドイツが敗北した後、戦後を描く結末において、全ての構図が逆転して反復する。
ユダヤ人のアドルフがパレスチナ入植でアラブ人を虐殺することに対し、戦犯容疑から逃れたナチスのアドルフはアラブ人に協力して戦闘する。アラブ人は協力者がナチスと知りつつ、ともに戦うのだ。この描写には、様々な地域の様々な宗教の様々な人々の反発があるかもしれない。だが『アドルフに告ぐ』の結末は、人々を傷つけてまでも描く価値がある。
ナチスという悪者がユダヤという弱者へホロコーストを行ったという単純な“点”の物語にとどまらず、現在にいたる“線”の物語を見せるために、終わったばかりの虐殺をくりかえす必要があった。歴史を流れとして描くとは、そういうことだ。
他方、日本人の描いた物語の限界として、ユダヤ人の考証に甘さが見受けられることも事実だ。たとえば、ユダヤ人のはずのアドルフがキリスト教徒のような言動をとる描写がある。それをたかがマンガだからと見過ごすのではなく、全体の説得力を失わせるほどの瑕疵ではないにせよ、考証の誤りを指摘するのだ、価値ある作品と認めるからこそ。


先に紹介した『アドルフに告ぐ』の結末と欠点は、ドイツと同じ陣営で第二次世界大戦を戦った国に育ちながら戦争を忌避していた手塚治虫の、題材との絶妙な距離感を示す。考証の誤り自体が、作者の意図や制作背景をうかがわせる場合もある。欠点を指摘することは、必ずしも作品の価値を無闇に貶めるためではない。
ヘタリア』の浅さを指摘しつつ、しかしそれ自体にフィクションの価値があると書いた前エントリを補足するつもりで、簡単に紹介させてもらった*2。意図した部分が多少なりにでも伝わっただろうか。
念のため、もちろん『アドルフに告ぐ』と『ヘタリア』とでは制作にかけた手間も想定する読者層の広さも違うのだが、ここで問題にしているのは送り手ではなく、受け手の立ち位置だ。また、全ての受け手が同様の態度を取るべきという話ではない。

*1:いうまでもないが、もちろんもう一人のアドルフも登場し、主に日本編でのサスペンスと関わってくる。

*2:余裕があれば藤子・F・不二雄「十字軍の少年騎士」を熱く紹介したかった。