法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『特派員が見た「紛争から平和へ」 人々の声が世界を変えた!』伊藤千尋著

欧州、アジア、アメリカ大陸の各国に見られる平和を求める個人、人々、組織を紹介する2002年に出たルポタージュ。最終章では9.11に対する動きも取り上げられている。


題名でわかるように、やや平和運動に対して楽観的な雰囲気。出版から5年で後退が見られる点も多い。とはいえ、特派員として様々な歴史が変わる現場に立ち会っただけあって、印象的な逸話が多い。事件や運動への歴史的経緯には平易でまとまった解説もつけられ、漠然と知っていた事件の文脈を知ることもできた*1
冬のチェコ、街頭にて女性歌手マルタ・クビショバ*2へ30万人*3が自発的にVサインをかかげ、寒さで肌が染まっていった*4
ルーマニアでは上官が逃げ出し、軍は統制を失い、内戦状態に陥っていた。そこで市民が自発的に検問を行い、兵士に指示する様子が報告されている*5
『ナヌムの家』のビョン・ヨンジュ監督がベトナムのディエン・タオ村におとずれた話もある。そこで彼女はベトナム戦争で韓国軍が虐殺したという証言を記録した*6。自国の受けた痛みと同じように自国の与えた痛みを記す彼女は涙を流していた。
「最初の印象は実直さ」*7だった元学者の大統領アルベルト・フジモリが、10年後のインタビューになると「彼の顔は、長い権力闘争を経てゆがんでいた」という話も重い。わざわざ顔写真で比較してまでいる*8
カソリックが民主主義を支えていた南米チリに故ヨハネ・パウロ二世が訪れ、スラムに向かい、ピノチェト政権を独裁と批判した時の話もあった*9。色々と問題もあったが、偉大な人であったことは確かだと思う。
アルゼンチン軍事政権で拉致された人々の調査を要求する「五月広場の母たち」には日系人もいる。しかし軍事政権が終わり、ドイツやスイスが強い政治的行動をしている時に、日本大使館の一等書記官は「大使館として何もしていないわけではない。みなさんのことをちゃんと東京に報告してきた。民主化を支持するが、内政干渉はできない」とあいまいな態度を取ったという*10


終章では、9.11直後から向けられた憎悪からアラブ系米市民を守るため、つきそい運動が行われたことを伝えている。それを最初に始めたのは日系人だという。動機として日系人強制収容所の歴史があったことが示唆されている*11
マイク・ホンダ議員がイスラム教徒を擁護していた活動も、彼個人の特質のみならず、日系人社会の後押しがあってのことだったろう*12


ちなみに著者は朝日新聞社員で、各国で支局長もつとめている。
就職内定をもらった大学四年時には、「アドベンチャー・プラン」なる「世界中どこでもいいから冒険して来い、採用の分には一千万円出す」という企画に応募し、入社を辞退してロマ*13を追う探検旅行に向かったという。「私はロマンを選んだ」とは著者の弁。朝日新聞には一年後に試験を受け直して入社。
いかにも若さあふれる行動で、事件に巻き込まれれば「自己責任」の合唱が巻き起こったかもしれない。……ところが「アドベンチャー・プラン」を企画したのは産経新聞だった。個人的には最も印象に残った話だった。

*1:同時に、自分の知識がいかに薄いかということも思い知らされた。

*2:プラハの春後に侵攻したソ連軍と、ソ連よりの自国政府を強く批判して、歌うことを禁止された。

*3:直後に演説が行われた時、著者の足下からも拍手が聞こえてきた。地下街にも人があふれていたのだ。

*4:23頁

*5:42頁

*6:121頁

*7:174頁。他、「日本の地方の高校の教員室にいそうなまじめな教師」「きさくでシャイで好感が持てた」

*8:173頁

*9:213頁

*10:234頁。1999年3月にピースボートがアルゼンチンに立ち寄り、「五月広場の母たち」とともに日本大使館に向かった。現場には著者も立ち会っていた。

*11:384頁

*12:ホンダ議員のコメントを読んだ記憶があるが、ちょっと見つからない。

*13:俗称ジプシー。