法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

刑事裁判は被害者を救えない、ならばどうする?

強調は引用者。
http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2007/09/20/20070920010007651.html

 広島高裁で20日あった山口・光市母子殺害事件公判で陳述した本村洋さんの意見の要旨は次の通り。

 この裁判での意見陳述は2回目となります。5年9カ月前の広島高裁で、私は以下のように述べました。「妻と娘の最期の姿を君は忘れてはならない。君が犯した罪は万死に値します」

 初めての意見陳述の時、死刑判決が下されない可能性が高いと思っていました。君が社会復帰した時に二度と同じ過ちを犯してほしくないと思い、人間としての心を取り戻せるようにと一生懸命に話しました。5年以上の歳月が流れ、死刑判決の可能性が高まり、弁護人が代わり、君は主張を一変させた。それがわたしを今最も苦しめています。

本村氏は昔からメディアで極刑を望む発言をくりかえしていた。しかし最初の意見陳述では社会復帰を前提に意見陳述をしていたという。
この点がどういう変化なのか、くわしい説明がなかなか見つからない。かなり重要な話だと思うのだが……

 弁護団はインターネット上で裁判の資料を公開しています。妻の絞殺された状況を図解した画像が流布され、議論されている状況を快く思っていません。妻の悔しさを思うと涙があふれてきます。家族の命をもてあそばれている気持ちになるのは確かだと思います。

 私は事件直後、事件を社会の目にさらし、司法制度や被害者の置かれる状況の問題点を見いだしてもらうことを選択しました。家族の命を無駄にしないことにつながると思ったからです。しかし、家族の殺害状況まで流布され、判断が間違っていたのではと悔悟の気持ちがわいてきます。

橋下弁護士達が主張する「説明責任」と、被害者側の感情やプライバシーが衝突する証左。やはり最初から記者会見をするべきではなかったのかもしれない。

 このような事態になったのは、これまで認めてきた事実を一変させ、新しい主張が理解しがたいことばかりであることが原因と考えます。君はこれまで起訴事実を大筋で認め、反省しているとして情状酌量を求めていたが、それはすべてうそだと思っていいのですか。私が墓前で妻と娘に報告してきた犯行事実はすべてうそだったと思っていいのですか。

 私は納得できない。君が心の底から真実を話しているように思えない。君の言葉は全く心に入ってこない。たとえ君の新たな主張が認められず、裁判が終結したとしても、私には疑心が残ると思う。事件の真相は君しか知らない。

 私は君が法廷で真実を語っているとは到底思えない。もしここでの発言が真実だとすれば私は絶望する。君はこの罪に生涯反省できないと思うからだ。君は殺意もなく偶発的に人の家に上がり込み2人の人間を殺したことになる。こんな恐ろしい人間がいるだろうか。君は殺意もなく、生きたいと思い最後の力を振り絞って抵抗したであろう妻と娘の最期の姿が記憶にないのだから反省しようがないと思っている。

殺意の有無はともかく、偶発性については一審二審ともに計画性の薄い犯行と認定していた。
本村氏は自分の考えが裁判所に必ずしも認められない可能性について、不思議と言及しない。裁判所を敵視しかねない発言をすれば、裁判で検察が不利になると思っているのかもしれない。

 私が君に言葉を掛けることは最後だと思う。最後に私が事件後に知った言葉を君に伝えます。老子の言葉です。「天網恢々(かいかい)、疎にして漏らさず」。君が裁判で発言できる機会は残り少ないと思う。自分が裁判で何を裁かれているのかをよく考え発言してほしい。君の犯した罪は万死に値する。君は自らの命をもって罪を償わなければならない。

 裁判官のみなさま。事件発生から8年以上が経過しました。私は妻と娘の命を奪った被告に対し、死刑を望みます。正義を実現するために司法には死刑を科していただきたくお願い申し上げます。
(9月20日20時58分)

本村氏はここで「死刑を望みます」と語っている。また、意見陳述後の会見では「やはりこれまで被告人が認めてきた犯行事実が事実であったと、私は自分の心の中で確信をしています」とも語っていた。
しかし裁判は本村氏の「確信」とは別個に裁きを行わなければならない。事実として、一審二審の判決は本村氏の望まない内容だった。望み通りの刑が今回の裁判でも下されなかった場合、本村氏は社会から認められない確信を抱きしめて生きていかなくてはならないのだろうか。


「確信」を社会とすりあわせる一つの方策として、「文学」というものが考えられる。虚構という形で、事実とは断言できない問題をすくいあげ、読者に指し示すことができる。会に変化を与え、人々の指標となることすらもある。現実では誰にもわからない他人の内面さえ、自在に書くことが可能だ。
本村氏はすでにノンフィクションの『天国からのラブレター』も発表している。様々な批難も与えられている書籍が、少なくとも出版の自由は保証されるべきだ*1


苦しみを癒す方法は、けして被告に極刑が与えられることだけではない。
被害者がどのような道を選ぶとしても、社会の側は可能な限り広い選択肢を用意しておきたい。

*1:かつての本村氏が行ったように被告人の実名を明かしたりしない限り。