法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

弁護士≒翻訳家

たとえ話を考えている。


弁護士は被告人の主張を法律に当てはめ、法廷において被告人の利益になるよう考慮して弁護する。
翻訳家は原作の内容を別言語に当てはめ、他国において原作者の利益になるよう考慮して翻訳する。
出来る限り減刑されるために、判事に受け入れられようと弁護士は考える。
出来る限り本が売れるために、読者に受け入れられようと翻訳家は考える。


受け入れられるため内容を変えるべきと判断すれば、被告人・原作者を弁護士・翻訳家が説得する場合もある*1。しかし、法廷・他国では通用しない内容と聞かされても被告人・原作者が押し通せば、弁護士・翻訳家は飲まざるをえない。たとえ結果が不利になるとわかっていても・御当地ネタが通じなくても、自分の意思をつらぬきたいと思う場合がある。
弁護士・翻訳家ができるのは、あくまで助言であって命令ではない*2。「利益」とは、究極的には被告人・原作者の主観で判断されるものだ。


もちろん、実際には弁護士・翻訳家が内容を少し変えることは少なくないだろうし、内容変更で利益を出せば被告人・原作者が文句をいうこともないかもしれない*3
……しかし、勝手に内容変更したのに利益が明白に増さなければ、どうなるだろうか。被告人・原作者が弁護士・翻訳家を批難する可能性は極めて高いだろう。


さて、光市母子殺害事件裁判の話だ。
まず最高裁への上告が棄却されなかった時点で、死刑の可能性は高くなっていた。そして事実関係にしろ情状酌量にしろ、弁護する物理的な余裕が少ない状況で差し戻された*4。差し戻し審にいたっては、なおさら重い刑への道筋ができていたことは共通理解ではないかと思う。
そして一審二審で事実関係を争っていなかった以上、情状酌量への努力は可能な限り行っていただろうと推測もできる。もともと安田好弘弁護士へ被告人の弁護をたのんだのは、二審の弁護人からだったという経緯がある。これは二審の弁護人が自身の手法で限界を感じていたことをうかがわせる。
情状酌量がかなわなければ、事実関係を争うことに一縷の望みをたくすことは、そう不思議な選択ではない。もともと死刑*5の公算が大きくなっていた状況で*6、死刑になったから悪い弁論だったということはいえない。別の弁論を行っていても、やはり死刑だったかもしれないのだから。
もともと究極の選択だったのだ。


映画『それでも僕はやってない』でも、究極の選択が描かれていた。
検察主張を全面的に認め、実質無罪くらいに軽い判決で、早く裁判を終わらせるか。検察と可能な限り争って、時間をかけてでも無罪判決の可能性にかけるか。そして主人公の選択は「争う」だった。
光市母子殺害事件においては、検察主張を全面的に認めても裁判はなかなか終わらない上、死刑判決の可能性が限りなく高くなった。となれば、映画の主人公以上に争う選択は自然な判断だろう。


何より、被告人が判決前に死刑であっても受け入れると語っていたこと。そして死刑判決に対して黙礼で応じ、弁護人に虚偽証言を教唆されたと主張しなかったこと*7
少なくとも、争った結果の死刑という一種の不利益に対し、被告人は文句をつけていない。被告人が納得しているのであれば、それはそれで主観的に「利益」だったのだろうと考えるしかない。


依頼者の意図を無視して利益をあげる。依頼者の意図にそって不利益となる。どちらも簡単に批難することはできない。どちらにも相応の理由がある。
結局、批難される場合があるとすれば依頼人の意図にそわず、不利益を出した場合くらいなのだ。
もちろん依頼人の意図にそって利益を出すことが最善だろうが……利益については結果論だし、そもそも前提条件に左右される。駄作や暴論が翻訳されることも、そう珍しくない。

*1:翻訳においては、意訳や超訳と呼ばれるものがある。

*2:そもそも安田弁護士は被告人に供述内容を指示していると批難されていたのではなかったか。

*3:いや、映像化された作品が好評な場合でも、原作者が文句をつける数を考えると……

*4:争う余裕がない状況で弁護人を批難することは難しい。

*5:日本における最高刑と考えていい。

*6:私もまた、判決の細部に疑問を持ちつつ、死刑自体は意外でないと書いた。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080423/1208995791

*7:争った結果の死刑を納得していた様子から見て、主観による事実を主張すること自体が被告人の希望だったとすら思えるが、これはあくまで個人的な憶測。