京極夏彦が様々な作家や学者と雑誌で対談したものから、妖怪を軸に編集したもの。正当な歴史学から認められない妖怪だが、かといって民俗学も進歩がないのではないか、といった批判も飛び出す*1。
保阪正康極左説が生まれた原因の対談が収められていて、そこが見所の一つ*2。290頁の発言などは、確かにナイーブな2ちゃんねる住人にはつらかったことだろう。
もともと日本陸軍の思想というのは「日本というのは物質がない。戦費もないから肉弾突貫作戦だ」でしょう。肉体が武器です。真っ正面からぶつかって行けという考え方が軍のなかに一貫してありましたね。だから玉砕はするわ、特攻作戦は進めるは、平気で虐殺もするわということになるんですけれどもね。
もちろん保阪氏は保守派であり、321頁では自身を保守派*3と位置づけている。
でも、生者の世界では、「戦後民主主義」や「個人主義」の旗色がだいぶ悪くなっている(笑)。僕は過度の保守派ではないと思っていますが、それでも僕らの国は欲望をどこかで自制的にコントロールする知恵を持たないと大変なことになると思いますね。
戦後から高度成長期までの個人主義によって幽霊も個別の来歴を持ち、妖怪から区別されるようになったという京極氏の主張を受けての発言。逆に、保阪氏がどのような考えを保守と位置づけているかもうかがえる。
宮部みゆき氏との対談では、「神の国」「三国人」といった発言への批判もある*4。言葉を操る作家らしい視点からの指摘で、ゆえに石原都知事に対しての見方が最も辛辣。
この間の首相の「神の国」発言ですけど、日本は八百万の神の国、神々の国ですと言っておけば、かえってよかったと思うんですよ。
この宮部氏の考えは妥当だろう。多少なりとも宗教や伝奇をかじっているものからすれば、日本の神々が天皇を中心とするなどという考えは明治政府による虚構と明らかだからだ*5。
民俗学者小松和彦教授との対談でも*6、面白い情報が紹介されている。小松教授が「霊」についての論文を書く際、三省堂の辞典部編集者に調べてもらったところ「慰霊」という言葉が戦前にはほとんど使われていなかったことが明らかになったという。かつては「招魂」「弔魂」という言葉が、かろうじて近い意味で使われていたらしい。
ここでも戦争によって分断された意識がある、というのは感じるところがあるが、自分の中でまだまとまらない。
歴史学者西山克教授*7の、神*8や怪異をかつては国家が設定していたという指摘も興味深い。やがて国家が制度的に完成するにしたがい、不用になった陰陽師らが野に下り、一般的な怪異や妖怪となっていったという主張だ。
もちろん明治政府の立ち位置にも言及される。靖国神社の意味合いや天皇の伝統的権威を支えようとした明治政府の行動*9、それと同時進行した被差別者の排除。
妖怪の裏にある差別性や植民地主義、歴史の受容、現在と過去との断絶や繋がり、正史には組み込めない虚構史*10の価値、民俗学と歴史の距離といったことを考えさせられた。
もちろん、巻末の水木しげる*11荒俣宏京極夏彦3人の鼎談など、一般的な妖怪趣味を満足させる対談も多く収録されている。
妖怪趣味にとどまらず、太平洋戦争を境とする歴史や、まつろわぬ者に興味がある者にとっても刺激的な対談集だ。
*1:大学講師として20年ぶりに民俗学に関わることになったが、論文や学会でブランクを感じさせるほどの進歩がなかったと大塚英志氏が語っている。
*2:http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070509/p1がくわしい。
*3:過度ではないながら、保守と自認していなければ出てこない表現だろう。
*4:127〜128頁
*5:さらに日本にはアイヌ民族や琉球民族の神が存在することも忘れてはならない。
*6:366〜367頁
*7:怪異の発生を彼岸と此岸の“媒介者”によるものという説を立てている。398頁で『風の谷のナウシカ』のナウシカを一例として提示。さらに網野史観についても言及している。同じ宮崎駿原作監督の『もののけ姫』が網野史観に影響を受けていることを考えると、ナウシカを媒介者とする説には説得力を感じる。
*8:怨霊に由来するものをふくむ。
*9:392頁
*10:師事していた民俗学者千葉徳爾が民俗学を偽史と呼んだことを、大塚英志氏が証言している。
*11:言動の全てが妖怪そのもの。