法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

暫定的に、細田守監督『時をかける少女』について

一定以上の年齢なら誰もがご存知の実写映画からスピンアウトした、単館系アニメ映画が土曜日ゴールデンタイムで放映された。『時をかける少女』以外の何ものでもないと同時に、細田守監督の作家性が全面に出た作品となっている。
くりかえしギャグを多用するコメディ的な前半から、徐々に疾走感を増していってクライマックスに至る展開が、いかにも細田作品らしい*1
最初の映画監督作品『劇場版デジモンアドベンチャー』ではデジモンと主人公兄妹のやり取りが、進化*2する度に少しずつ変化しながらくりかえされ、そうした人ならざる者との交流が戦闘のクライマックスで結実する。『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』では敵デジモンが進化しながら状況を悪化させる度、主人公がデジモン達とうまくコミュニケートできないもどかしさが描かれ、クライマックスの奇蹟を盛り上げる*3。そうして監督の好む演出手法に合う小道具を求め、タイムリープという設定を持つ作品を選んだといった風に感じる*4


……といったありきたりな感想を持っていたのだが、同じ構造を意識してくりかえしたのは『時かけ』だけという監督コメントがあった。該当個所を『デジモンアドベンチャー 絵コンテ・細田守』の後半インタビューから引用する。聞き手はWEBアニメスタイル編集長の小黒祐一郎

――劇場第1作と『ウォーゲーム!』はリズムは違うけど、カットのメリハリのつけ方に関しては近いところがある。だけど、後に作った『時をかける少女』はメリハリのつけ方が違うよね。
細田 『時かけ』の大きなコンセプトは、やっぱりタイムリープなんですよ。時間が戻るという現象を、映像的には同ポ(同ポジションの構図)の繰り返しとして表現しています。その同ポのリズムが、映画のトーンになっているんだと思うんです。

しかし、細田監督は以前に別インタビューで「あと、僕がやったTVアニメって、同ポジションが多いんですよ。」「もうひとつは同ポジションを繰り返すこと自体でテンポやリズムを生み出せるからなんですよ。」と答えている*5。つまり同ポによるリズム調整だけならば、似た演出をすでにやっているわけだ*6
では『時かけ』は監督が以前に手がけた作品とどこが違うのか*7。それは監督インタビューの直後を見れば判明する。

時かけ』は主人公の感情の動きを観客にじっくりと感じとってもらう事が大事な映画だから、その点でも組み立て方が違いますよね。『ウォーゲーム!』は、インターネットがコンセプトになっていて、ネットサーフをして色んなページを見るように展開していく。劇場第1作の方はリアリズムがトーンになっているんだと思う。

細田作品として『時かけ』が持つ特異性は、主人公一人称の映画であることだ。
劇場第1作は兄妹両方もしくはどちらか一方の視点を中心に、違う子供の反応を少し映しつつ、大人の視点は徹底的に排除される*8。『ウォーゲーム!』は全体を俯瞰で映し、主人公も他の子供も大人も老人もデジモンも敵もイメージカットも混在する。
時かけ』は主人公以外の視点は徹底的に排除される。モノローグを使うのは主人公のみで、相手のモノローグ的な長台詞はあくまで主人公を前にしたオフ台詞*9にすぎない。
周囲の出来事は主人公の見る範囲しか映らない結果、断片的な情報からの推測が現実と齟齬をきたす。当然、主人公は何度も窮地に追い込まれる*10
ラストカットも、劇場第1作は主人公とデジモンが対面して触れ合い、『ウォーゲーム!』はいつのまにか友人の隣で主人公が同じ風景を見ていて、『時かけ』はボールを受け取った主人公のアップで終わる、という違いがある。


ここまで考えると、『時かけ』はコミュニケーションというものの扱いが、以前の作品と異なることに気づく。かつての細田作品において、コミュニケーションとなる相手は自明のものとして存在していた。相手と言葉が通じないことや、すれ違いが障害であった。『時かけ』は相手自体が、手探りでつかまなくてはならない不確定な存在に描かれる*11
時かけ』において、主人公はリセットされた状態で結末を迎える。最後に語りあおうとした相手は、もういない。……いや、未来にいる相手は、まだいない。
この作品は、主人公が誰かと心をかわす物語ではない。いつか誰かと心をかわせることを確信する物語だ。
確信を担保するのは、青春を謳歌しうる若さなどではなく、夏という季節の暑さでもない。ただ青春を肯定するだけならば、普遍性を持った作品ではない。
心をかわせる可能性をもたらすのは、他人が思い通りになる人形ではなく、それぞれの事情と感情をかかえた個人であると知ること。
映画を観た者は、それを知ることの大切さを、すでに知っているはずだ。

*1:だから、CMは前半を多めにして、後半はできるだけ少なくするべきだったろう。視聴率的にもサッカーの延長戦があったのだし。また、自転車で2人が死にそうになる場面は時間停止よりも前、残量が00になって自転車とすれ違い驚いた時にCM入りするべきだったと思う。

*2:成長や変態の方が意味としては正しいが、マンガやアニメやゲームの慣例でこう呼ばれる。

*3:さらに出会いを別離に置きかえると『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』49話のような作品になる。ちなみに同じく細田守演出の40話には、時を超えて生き続ける魔女を原田知世が演じており、映画制作の前から原作を意識していた様子がある。

*4:実際、アニメ化は細田守側から手をあげたという。

*5:デジモンムービームック』集英社。フィルムブック的な構成のムックだが、個々のカットにマニアックな解説がつけられていて面白い。同じ構造をくりかえすストーリー構成についてもふれられている。L/Oや美術、CG等の資料も充実。

*6:細田監督自身が絵コンテインタビューの続きで「今、話をしながら、我ながらちゃんと考えて作っているな、という気がしました(苦笑)。」と答えているところから見て、現実にはインタビューほど言語化して演出していたわけではないと思われる。

*7:なお、『劇場版ワンピース オマツリ男爵と秘密の島』は未見。ビデオでいつでも見られる状態なので、つい他の視聴を優先してしまう。なので、このエントリは不完全版だということを注意。

*8:主人公両親の顔は常に画面外に切れている。

*9:画面にキャラクターが映っていない状態で聞こえる台詞。

*10:時間移動SFの定番でもある。

*11:未来描写を明示して古臭くならないよう、未来人という設定が古さを感じさせないよう、背景となる未来を描かないという理由もあるだろう。『2001年宇宙の旅』で異星人が姿を見せなかったのと同じこと。また逆に、非視点人物主人公にとって他者を不明確な存在に描写した作品として『涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベルが有名。