法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『おおかみこどもの雨と雪』のリアリティーとファンタジーのアンバランス

物語がはじまってから四分の一くらい、社会の包摂からはじきだされた家族を描いたパートは悪くない。
そのまま終盤までつらぬけば、それはそれで現代社会のリアリティを誇張したアニメ映画として傑作になりえたかもしれない。医療保険制度が整っているはずの日本でも充分な治療を受けられない人々はいるし、周囲の圧力を内面化して福祉を遮断してしまう家庭だってある。行政の支援をえられない立場の隣人は厳然として存在する。
苦痛に満ちた物語になるだろうが、娯楽としてまとめることも無理ではない。御伽噺の結末と同じにすればいいのだ。多くを語らなければ美しい物語として終えられるし、その後を自由に観客へ想像させることもできる。『おおかみこども』*1も、田舎への移住を物語の四分の三くらいで描けば、苦労する場面が少なくても描かれなかっただけと観客は思えただろう。
そうした構造のアニメ映画も存在する。原恵一監督の『河童のクゥと夏休み』だ。ひょんなことから河童の子供を受けいれた家族が、ふりかかる障害に耐えられず、結局は離別してしまう物語だ。その結末で河童が移住した場所は、『おおかみこども』の田舎よりもファンタジー化されているのだが、物語が山場を越えた後ゆえ許される。


つまり『おおかみこども』最大のファンタジーは、田舎の理想郷的な描写そのものではない。都会で母親にふりかかっていた障害が、田舎に移住したとたんに後景に追いやられているところにこそある。
貯金を切り崩すしかない貧困も、無遠慮に介入してくる隣人も、田舎では何となくやりすごせるくらいに弱められてしまう。移住後に収入が言及されるのは生活が落ちついてからで、見つけた仕事も作中で説明されるほどの低収入なのに、ちゃんと子供を小学校へ通わせることができる。児童相談所の職員は眼鏡をかけた無人格な存在だったのに、田舎で親身になってくれる人々を母親は受けいれることができる。
都会で母親にふりかかる障害は、物語上の意味あいとしては、田舎へ移住させるための記号でしかない。移住後は障害が解決されていなくても我慢できてしまう。


くりかえしになるが、これは田舎の描写がファンタジーだから問題だという話ではない。むしろ場面ごとでは、田舎の苦労や不便を描いている部類ではある。
田舎に行けば障害が解決されるという嘘をつかないのは、ひとつの誠実さかもしれない。しかし物語としては、理想郷としたほうがフィクションとしての整合性はたもたれただろう。育児描写でストレスとカタルシスを描きたかっただけなら、それでも良かった。
解決する場面を描くような嘘はつけないのに、移住時においてのみ障害を念入りに描写するから、全体をふりかえると記号でしかなかったことが浮かびあがってしまう。目立つ理由は色々あるだろうが、どちらかというと整合性の問題だ。


導入でファンタジーなりのルールを示し、そのルールにしたがって動かすことが物語の定石だ。それがフィクションなりのリアリティーを生む。
最初に示したルールによる危機を、ルールを破って切り抜けてはいけない。次にルールによる危機が描かれても、またルールを破るかもしれないと観客に思わせてしまい、緊迫感が消えてしまう。だからルールを破っていいのは終盤などの一部例外だけなのだ。
『おおかみこども』の場合は、狼男と結ばれる導入から、育児にかかる苦労、そして移住した田舎での生活……いったんリアリティーを高めたのに、移住後は導入よりもファンタジー度が増している。もし全体のバランスをとりつつ田舎で育児をさせたいならば、ファンタジーのまま移住するべきだった。たとえば、移住せざるをえない障害はファンタジー設定だけを理由にすれば良かった。産婆の介護すら受けない自宅出産を選択した理由と同じように。あるいは、そもそも狼男とは田舎で出会って、最初から田舎の郊外で育児をおこなうような物語でも良かった。
そうした構造のアニメ映画も存在する。宮崎駿監督の『となりのトトロ』だ。移住した理由の多くを語らず、重く描かず、手早く導入したために、よりファンタジーな田舎なのにバランスはまとまっている。田舎の育児生活を描く物語にしたいのなら、別に都会生活を描く必要はない。


そして短編ながら、『河童のクゥ』と『トトロ』の要素をあわせもつアニメ映画もある。細田守監督の初監督作品『劇場版デジモンアドベンチャー』だ。
異次元の生物デジモンと出会った兄妹というファンタジーな導入。兄妹とデジモンだけのやりとりは、団地を舞台としながら活き活きとしている。そしてコミュニケーションとディスコミュニケーションをつづけた果てに、発端と結末で兄弟のありようが逆転するところは、『おおかみこども』の原型といえる。
ただし『デジモン』では、親の人格が徹底的に除外されている。大人は基本的に首から下しか画面に映らないほどだ。もともと細田監督は表舞台に登場する人数をしぼることで、意識的に全体のバランスをとっていた。それが『おおかみこども』では、育児する母親と自我を確立していく姉弟の物語をならべ、そのリアリティとファンタジーを整合させられなかった。そして細田監督の獲得した高い演出力と映像技術が、よりアンバランスさを際立たせてしまった。
東映アニメーションを離れてからの細田作品は、過去作品の焼き直しをおこないつつ、新しい要素を無理に加えようとして全体のバランスが崩れる傾向がある。原型の作品に無駄がないほど、焼直すことが難しい。そんなことを感じている。

*1:以下、同様にタイトルを省略する。