法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『サマーウォーズ』で応援の電話をかけまくる場面が、ただの迷惑に見えてしまう問題について

アナーキーな自警団「サマーウォーズ」 - 深町秋生の序二段日記

「社会がパニックに陥っている」と判断したおばあちゃんは、なにやら警視総監にまで意見をするのだが、世にとってこんな迷惑な行為はない。見ていれば単なる精神論でしかなく「しっかりしろ!」とか「やればできる!」とか、どうでもいい身勝手な叱咤激励でしかない。

どうして迷惑に見えるような描写になったかというと、その場かぎりのもりあげを優先して、場面ごとの関連が薄いためだろう。つまりは作品全体を象徴する問題だ。
似たような問題として、敵が陣内家にばかりかかわってきて、陣内家が一丸となって戦うという世界観の狭さにメタファー以上の理屈がないことがあげられる。陣内家を出奔した青年が敵の基礎を作っていたわけだから、その学習させた興味関心の範囲が陣内家のひとりひとりと重なっている……といったかたちにも設定できただろう。
同じ電話描写であっても、たとえば老女が最初から電話魔で、周囲に迷惑をかけつづける前振りがあれば違っていた。家をはなれた孫へ薙刀をもちだす描写からして不自然ではないはず。そうして連続性を高めれば、あちこちへ応援の電話をかけることを迷惑と明らかにしつつ、それでも落ちこんだ周囲をはげますという対比的な描写になりえただろう。


いや、老女への批判を防ぎつつ、登場人物を前向きにさせるため挿入したいだけでも、迷惑に見えないよう処理する方法はある。
たとえば電脳社会の混乱によって何もできないと思いこみ、気持ちが沈んでいる現場の人々の姿を直前に足すだけでいい。状況から逃げたり、パニックになっている人々が電話を受けて再起する姿を見せるだけでいい。会話の音声など流さずとも、引いた絵で顔を上げる描写をするだけでいい。
もちろん電話先が落ちこんでいることを老女が確信できる情報はないが、そこは映画の嘘で許される。結果論にせよ、作中の現実として問題が解消されるからだ。
電話先の姿をいっさい見せない*1ことから、素直に感動する観客と冷めてしまう観客にわかれてしまう。


もちろん、上記のような簡単な処理をおこなわかったのは、作者が思いつかなかったためとはかぎらない。
ここで思い出すのが『サマーウォーズ』のリメイク元である『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の応援メールだ*2

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主人公たちの戦いをインターネットで見ていた子供たちが、つぎつぎにメールを送ってくる。しかし善意でおくられたメールもふくめて主人公たちのパソコンを重くさせ、戦いに負けさせてしまう。そこで辛辣な評価のメールが読みあげられる。応援とはしょせん観客席からの無責任な声にすぎないと気づかされる描写だ。
もちろん応援は負担になるだけではなく、再起した時は精神的な支えのように読みあげられるし、デジモンという存在を強化させる奇跡を生み、ある種類の武器にまでなる。メールを読みあげる描写は、キャラクターのモノローグのような効果もあり、ドラマとシンクロして強調もする。同じ出来事がドラマにおいて多重の意味をもつ。
つまり、細田守監督は応援が現場の負担になりうることを知っている。しかしリメイク作品で応援を肯定的にのみ位置づけようとして、現場の負担を隠すという選択をしてしまった。そして奇跡を生む応援をクライマックスで別個に用意することで、電話の描写を宙ぶらりんにしてしまった。


そもそも『ぼくらのウォーゲーム!』には、電話をとっては悪意なく切ってしまう老女も出てくる。そのため主人公たちは戦いに合流するまで時間がかかってしまうのだが、さほど切迫していない序盤であることと、老女に悪意のたぐいがないことで、嫌悪感はわきにくい。何より、誰にとっても困った行動と明らかなため、良くないことを良いことのように描かれる違和感がなかった。
もし『サマーウォーズ』が単独で発表された作品であったら、もしくはリメイク元を見ずに観賞すれば、電話の応援をあのようにしたのも勢いを優先したと解釈できたかもしれない。しかし『ぼくらのウォーゲーム!』を知っていると、どうしてもその先の描写を期待したくなるのだ。

*1:現場にいた陣内家の男たちが後で語りあう描写はある。

*2:もうひとつ、後述の老婆をはじめとして、主人公が仲間を集めるために電話をかけていく場面もあるが、特に感動的なドラマにはつながらない。うまくいかない主人公の情けなさをブラックに描写していた。