遠い未来、猿や人間の子供たちに大人の猿が歴史を語る。それは猿の反乱と核戦争の後、森で人間をしたがえていた猿たちと、放射能に苦しみながら廃墟の地下で生きていた人間たちの争いの歴史だった……
1973年に公開されたシリーズ5作目にして、初代から始まるストーリーの完結編。J・リー・トンプソン監督のように、4作目*1からひきついだスタッフが多い。
横長のシネマスコープサイズの作品だが、1作ごとに制作費が削減されたシリーズらしく目に見えて安っぽい。4作目からは下がっていないものの、せまいビル地区を舞台に反乱の開始を描いた前作とは描くべきスケールが違う。人と猿それぞれの生活圏を描いてアクションを展開する物語にはリソースが明らかに不足している。
1作目*2でも近未来都市を断念して土壁のドームがならぶ村に猿を住まわせていたが、5作目の猿の村は青空教室とツリーハウスだけ。戦闘でツリーハウスが何度も破壊されるシーンは、明らかに同じ破壊を別のカメラで撮影したカットという節約ぶり。核攻撃後の人類都市は、マットペイントの絵が1枚と、ちょっと廃墟をいじったような地上セットと、工場で撮影したような地下だけ。
物語も平凡きわまりなく、血なまぐさい前作から一転してファミリー路線に戻そうとしたため、猿と人との戦争を描きながら映像に緊張感も刺激もない。公開当時に酷評されたのも当然と思えるような映画ではあった……
……とは思いつつも、B級ポストアポカリプス映画の先駆という好意的な解釈も可能ではないか、とも感じられた。
たとえば人類の生き残りが薄汚れた改造車両で砂漠にのりだし、大挙して猿の村へ侵攻する情景は*3、1981年の『マッドマックス2』*4を連想させるところがある。
人と猿それぞれの勢力に好戦派と穏健派がいて、滅びかけた世界のなかでの理想を描こうとする対立構図も、真面目なB級ポストアポカリプス映画らしさがある。問題は、勢力内の葛藤が表層で終わってしまったことにある*5。
たしかに安っぽくうわすべりな作品だが、設定や構造は意外と魅力的に発展できるポテンシャルがあるのだ。その証明になりそうなのが、シリーズリブート2作目『猿の惑星:新世紀』だ。
滅びかけた世界での人と猿の戦争、そこで兵器としてもちだされる改造車両、猿は森に人は廃墟に住んでいること、猿勢力の簒奪者の末路……リメイクといっていいくらい描写や構造が似つつ、自然でいて大規模な動物VFXと廃墟表現で重厚なポストアポカリプス戦争映画として完成していた。