オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」をめぐる裁判で、オープンレターを発表した側の勝利で和解したという発表 - 法華狼の日記
オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」に対して、有識者がふしぎな解釈をおこないながら批判する場面は、上記エントリで言及した高橋雄一郎氏の他にも見かけた。
そのひとりが京都女子大教授の倫理学者、江口聡氏だ。そのブログエントリへ解釈に異をとなえるコメントを以前に書きこんだが、反映されなかったので、ここに公開しておく*1。
話題の「オープンレター」について | 江口某の不如意研究室
「同じ 場 では仕事をしない」という表現になってますが、もちろん同じ場所、たとえば同じ部屋では仕事をしない、とかっていう意味じゃないわけですよね。「同じ 職場 では仕事しない」だろうと思います。
私は素直に、登壇者の顔ぶれを見てイベントや講演に出ない、雑誌の執筆者や編集者を見て寄稿先を選ぶ、そういった解釈をしていました。
ごくまれに差別などを容認するとして会社などから退く人もいますし、その選択をおこなえる人を社会がささえるべきだろう、とも思いますが。
このことは、賛同者のひとりである能川元一氏も指摘されています。この可能性を貴方が思い当たらなかったことがむしろ不思議です。「同じ場所」を「同じ職場」と理解してしまったらオープンレターのあの文言にコミットできるのは広めにとって日文研に、狭くとれば日文研の同じ部局に在籍する人間だけになってしまうわけで、まあアホですよ。 https://t.co/IAJjYwdyuz
— 能川元一 (@nogawam) 2022年8月24日
ところが、逆にその人を会社から追い出す、という選択も可能だったわけですね。これは思い浮かびませんでした。大事っぽくなってから、仕事を頼まない、フリーランスとかの人を使わない、学者だったら研究機関に採用しないだけでなく、学会や研究会に呼ばない、ご遠慮いただく、むしろ追い出す、みたいなことを指してるとやっと理解してけっこうつらかったです。
心配しなくても、それはオープンレターが呉座氏の解職を要求しているという陰謀論にもとづく誤読でしかないと思います。もし差別者を追い出すことを意図しているなら、“距離を取らせる”といった表現になるでしょう。
そのような「理解」が成立する、それは「戯画化」ではないと主張されるのでしたら、「距離を取る」という表現がどのように「追い出す」という意味になるのか、きちんと論証するべきでしょう。後段と同じように文章の主客を検討されてはいかがですか。
私が目にした数件に限れば、一般的に女性全体を差別したものというよりは、「性差別に反対する女性を戯画化し揶揄」にあたるものかと思ってみました。こうした戯画化や揶揄には非難されるべきところがあるかもしれない。
そもそも呉座氏自身が女性差別したことを認めていること、そのこと自体は謝罪時から係争中の現在まで一貫していることを把握できていますか?
このことは先日にも新たなエントリであらためて言明されています。
ジェンダー・フェミニズムに関するカウンセリングにつきまして - 呉座勇一のブログ
私のこの文章自体が、レターに対して極端な読みをすることでレター制作者たちの立場を戯画化している、という非難がありえることは理解しています。しかし本当にこれ戯画化なのだろうか?
上記のように、「慎重な検討」にはほどとおい「戯画化」のたぐいだと私には感じられます。
また余談になりますが、下記エントリで指摘していたような拡散に貴方が手を貸していたところを見ると、貴方の「慎重な検討」は選択的と思わざるをえません。
呉座勇一氏と北村紗衣氏の和解金をめぐって、オープンレター以上に大変な事態になるのでは? - 法華狼の日記
なお上記コメントではふれていないが、エントリの注記において江口氏は呉座勇一氏のツイートを教えられて、人格攻撃的で厳しく非難されざるをえないことは認めている。
しかしたしかに人格攻撃的な書き込みが多かったようです。これ書いたあとに教えてもらいました。 https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42?frame_id=478704 これ3000人相手に鍵アカでやってたら(言及されてる方は知りようがない)やはりかなり厳しく非難されざるをえないですね。
実際の加害的なツイートを列挙しなかったことは、呉座氏という一個人への攻撃を目的としていないことの傍証にもなるだろう。
ちなみに当事者の呉座勇一氏も、下記のように「女性差別的な文化を脱するために」は排斥を主張するものだという解釈から、もとめられた賛同は拒否して和解したという。
オープンレター訴訟の和解成立のお知らせ - 呉座勇一のブログ
オープンレターは、「女性差別的な文化」から「距離を取る」という名の下に、差出人らが女性差別的とみなした人物を社会的に排斥することを推奨し、署名運動によって対象者を追いつめる、典型的なキャンセルカルチャーです。
しかし「女性差別的な文化を脱するために」の関係者や賛同者が、その署名をもって呉座氏を排斥しようと運動していたとは聞いたことがない。見てきたのは呉座氏や江口氏のように、「女性差別的な文化を脱するために」の拒絶者が解釈している場面ばかりだ。呉座氏が排斥の意図があるか質問して、意図はないという回答をひきだせば終わっていたのではないか。
第三者として「女性差別的な文化を脱するために」を見た当時の印象をいえば、呉座氏の問題が注目されたことを発端としてコミュニティの問題に目をむけようとする呼びかけだと思ったし、ツイートの加害性そのものは認めていた呉座氏の問題は一段落したあつかいのようにすら感じた。
仮に、賛同者は感じとれず拒絶者のみが感じられる排斥の呼びかけなのであれば、その呼びかけが効果をあげるとは考えづらい。「女性差別的な文化を脱するために」で言及された不祥事によって呉座氏が排斥されるのであれば、それは不祥事の結果であって署名の結果とは違うだろう。
排斥の呼びかけは存在しないと賛同者は語り、排斥の呼びかけは受けいれられないと拒絶者は語る。違う意味だが双方とも排斥を認めないことでは一致して、現実の「女性差別的な文化を脱するために」の文章はそのまま残った。争う意味がどこにあったのだろう。