法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

ライトノベル表紙群や『ドラえもん』をめぐる、表現の部分否定と全否定

『ドラえもん』のトロフィーワイフ問題について - 法華狼の日記

chounamoul氏のツイートだが、娘の発言を紹介するかたちは気になるが*2、ひとつの感想として理解はできるものだ。

 *2:これ自体がパターナリスティックなふるまいではないかという注意がほしい。親という立場は、どれだけ気をつけていても子を誘導しかねない権力関係がある。

上記の後日談として、今度は本屋で平台におかれたライトノベルの表紙に対する「娘」の評価をchounamoul氏がツイートして、話題となっているようだ。
「ライトノベルにおける性の商品化」と、それに「全ライトノベル作家を代表して謝罪」する「国際信州学院大学ライトノベル研究会」 - Togetter

本題に入る前に、今件で過去のchounamoul氏のツイートを多く読んで、「娘」の意見や情報を多く出しすぎなのではないか、という懸念は強くもった。
さすがに写真などは隠しているが、注目されているアカウントで発言どころか似顔絵まで公開している。将来にわたって娘の理解がえられるだろうか。


ともかく表紙群への気持ち悪いという評価を出したツイートに対して、このような書店の空間に娘をつれてくることへの批判や、売れている書籍を書店が平台にならべるのは当然といった反応がある。
よくリツイートもされた代表的な批判として、現在は消されているlyricalium氏のツイートがあった。
はてなブックマーク - まっぅら姫は振り向かない🍤🥦🍆💛📖🦇 on Twitter: "シュナムル氏の娘氏、ああいう本を気持ち悪がると父が喜ぶというのはもう叩き込まれてそうだし、それはああいう本を読んでみたいと思っても買ってもらったりできない、図書館で借りたりお小遣いでこっそり買ったりしたら隠さなきゃいけない境遇ってことだろうと推測され、気の毒だが、強く生きてほしい"

シュナムル氏の娘氏、ああいう本を気持ち悪がると父が喜ぶというのはもう叩き込まれてそうだし、それはああいう本を読んでみたいと思っても買ってもらったりできない、図書館で借りたりお小遣いでこっそり買ったりしたら隠さなきゃいけない境遇ってことだろうと推測され、気の毒だが、強く生きてほしい

たしかにchounamoul氏はパターナリスティックな部分に配慮は足りないとあらためて思うが、lyricalium氏もまた娘の“本心”を決めつけかねないパターナリズムに無自覚ではないだろうか。
親を通して語られる娘の思想が“親の教育”の賜物という蓋然性はあるとして、かといって“娘の思想”を親に従属しているとみなすことも人格を無視した態度という自覚は必要だ。
lyricalium氏は自身の性自認を男と表明しているのだから、その上で「娘」の心象を推測していることの意味を、もっと深く考えてほしい。


また、今も残しているlyricalium氏のツイートとして、ならんでいるライトノベルのひとつ『境界線上のホライゾン』の女性人気が高いという主張がある。

「「おっぱい!」な表紙」という説明から、そういう評価をlyricalium氏も自明のものとしていることがわかる。約10年前のシリーズ開始からライトノベル全体から見ても特異という印象はたしかにある。

なお、実際にどれほど女性人気が高いのか、lyricalium氏ははっきりとした根拠をもっていなかったようで、少し意見を後退させている。

ここで冒頭の後日談として興味深いのが、しずちゃんの位置づけに違和感を表明しつつも「娘」は『ドラえもん』を楽しみつづけていて、それをchounamoul氏は幸せに思っていること。

ある表現の一部を否定することは、その表現全体を否定することと同一ではない。chounamoul氏が同一視するだろうという憶測は、現実にてらしあわせて失当だ。
また、chounamoul氏の『ドラえもん』についてのツイートを読んでいたところ、今件より以前に、娘ではなく自身の評価として、性差別とは別個の批判をしているものを見つけた。

一応、原作などでは周囲のキャラクターの性格の悪さは意識的に描かれており、逆に最初から猫と解してもらって喜ぶエピソードなどもある。原作版の『のび太とアニマル惑星』のように、自認との乖離をギャグとしてつきつめたこともある*1

同時に、単純な「イジリ」で終わらせる描写を苦手に思う観客がいることも理解できるし、そうしたギャグ観の変化がいっそう作品に反映されていくのも時代の流れだろうと考える。


ライトノベル表紙の話題にもどるが、たとえば下記のwakari_te氏によるツイートは、状況の置き換えとしては失当だと考える。

ツイートにあるゲイ雑誌をゲイ向けポルノと解するとして、それを「気持ち悪い」と評するのが「子供」では、自身の属性を表現に使われた「娘」という構図とは異なる。
もっと比喩として近づけたいなら、たとえば女性向けボーイズラブ作品の表紙群を見た男性同性愛者が「気持ち悪い」と評する場面にするべきだろう*2
たとえ属性を支援し賞揚する作品であっても、否定的反応はおこりうる。映画『ジャンゴ 繋がれざる者』へスパイク・リー監督が嫌悪を表明したように。
スパイク・リー監督、『ジャンゴ 繋がれざる者』は祖先に対して冒涜、観るつもりはないと発言 - シネマトゥデイ
むろん表現された属性をもつひとりの意見が作品評価を決定するとは限らない。さらに属性と表現の関係も作品によって異なるだろうし、属性の社会的な位置づけによって異議の強度も変わるだろう。
しかし、そうした批判や異議は珍しいものではなく、どのような表現でも起きうるし、事実として起きているという認識はもつべきだ。ひとつの表現だけが差別的なまなざしを向けられているという理解は失当だ。

*1:連載と並行して映画が作られるため、原作で特に印象的なタヌキにまつわるオチは、映画では登場しない。

*2:男性同性愛者の年齢や社会的立場によって、どこまで「娘」と似ていると考えられるかも、また議論があるだろうが。