法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』雑多な感想と、『機動戦士ガンダムSEED』との簡単な比較

中盤から作画はへたり気味だったし、序盤の刺激は薄れていったが、全体としては案外とバランス良く、最後まで勢いを保った作品だった。
ところどころで『機動戦士ガンダムSEED』の設定や展開を思い出させつつ、いだいていた不満をほとんど払拭するように向上していたことが特に良かった。


まず独自性として面白かったのが、貴種流離譚らしからぬ主人公像。転落したのに最終回まで高貴なふるまいをつづけるアンジュ、その滑稽ぶりは今まで他に見たことがない。
そうして階級意識が実体としては下品でしかないことを暴露しつつ、それをアンジュがつらぬくことは力強さとして表現する。アンジュの愚かさや酷さを、ちゃんとそのように劇中で評価させつつ、それもふくめて生まれ育った個性として描ききった。
主人公に相対するラスボスのエンブリヲも、傲慢な思想と優雅な外見を損なわないままだった。世界を改変した科学者としてふるまっていたので、回想は嘘で醜い正体かと思いきや、顔は変わらないまま終わった。気持ち悪いとアンジュが外見を評したが、それはエンブリヲ自身が選べたはずの髪型だけ。これは見識だろう。
ひとつだけ良くなかったのは、力を持たないノーマが女性だけという設定に、子供を産む能力という説明をもってきたこと。最終回直前まで懸念をいだいてはいたが、そうならないことを期待していた*1。せっかく子供を産める関係だけが愛ではないことを終盤に何度も描いたのだから、「そうだったとして今の私たちには何の関係もない」のような台詞がひとこと欲しかった。


さて、『機動戦士ガンダムSEED』との比較だ。
きっとスタッフワークも良かったのだろうが、クリエイティブプロデューサーをつとめる福田己津央監督の作家性のようなものを感じた。


物語面でいうと、能力的な差別による対立が発端で、もともと特別であった主人公が劣った陣営にうつり、戦争を終わらせる唯一の存在として特別な機体で活躍する。主人公は自身の強さから増長し、仲間から疎外され、第三勢力に移ることで方向を決めていく。その差別による対立の背後に、全体を操作しようとするラスボスがいる。
クロスアンジュ』が良かったのは、主人公が増長したまま折れなかったこと。『機動戦士ガンダムSEED』ではフレイという少女が増長を助けて、それがトリックメイカーとして個性的で面白かったし、それに誘導されてしまった主人公キラの情けなさも嫌いではなかった。そしてフレイに誘導されている現状はキラ自身の問題でもあると福田監督も初期インタビューでは示唆していた。しかし、いつしかフレイとキラの関係は少なくなっていき、後半にフレイは敵勢力にとらわれ、キラとの関係がなくなってしまった。キラは戦いの鬱屈をかかえるが、序盤で出会った別の少女ラクスに助けられ、力を与えられて復活する。そして最終回にフレイが殺され、精神的に感応した主人公は許されて終わり。これでは増長の決着がつけられたとは感じられない。精神感応ができる世界だと最後だけ描かれても、同シリーズ別作品のニュータイプ設定をパロディしたとしか思えなかった。
物語の速さも違っていた。半年かけて故郷に戻ったり別世界に行ったりした『クロスアンジュ』は、イベントが毎回のように起きて、分割2クールでもないため勢いが死ななかった。一方、1年という放映期間をもてあますように『ガンダムSEED』は半分以上を一本道の逃避行についやし、総集編と回想を連発して停滞していた。


どのように主人公側が勝つかという過程も、ずっと納得感が高い。
ガンダムSEED』は、遺伝子操作で技術と能力で劣っているはずの主人公陣営に、なぜか優越した技術が実用化された場面からはじまる。敵側から技術漏洩したという古典的な背景すら説明されず、物量でも技術でも主人公陣営が優越していって、中盤から小規模な第三勢力に移った主人公が勝利して終わる。作品世界を設定的に広げるほど、世界観が小さくなっていった。
ラスボスのラウは、作品の根幹設定をくつがえす真相を持っていたが、なぜか物語のテーマにかかわらないまま終わってしまった。その真相のためかキラと終盤に戦った時から惨敗しており、ラスボスとしての格がない。機体性能にたよったラウと、時間無制限に強力な武器を使えるだけのキラでは、最終決戦がもりあがりに欠けるのは当然だった。
クロスアンジュ』は、能力を持たない主人公階級が唯一のドラゴン対抗手段として最前線に立つ。劣者が前線に立たされること自体が差別描写として機能しているし、遠隔地ゆえに革命を企図できるという描写も説得力ある。ドラゴンの真相は古典的だったが、よくある話だと劇中で笑う場面に余裕すら感じられた。そしてドラゴンの解明とともに世界設定を明らかにする前半から、ドラゴンという第三勢力とともに戦う後半へとスムーズに移行。
何度も復活するエンブリヲは、主人公の嫌悪する存在として、歪んだ世界の創造主として、ラスボスの器は充分。その復活のルールを戦いながらさぐっていくことで、知恵比べとしての面白さがあったし、いくつもの手段をこうじたなりの納得感はあった。


映像面でも、極端なパースをつけたロボットの構図、戦闘における個性のなさ、戦闘の大半が飛行シーン、殺陣では蹴りを多用、アニメ作品のパロディ、刺激的なエログロといった共通点が多い。どれも本来なら欠点になる要素だが、『クロスアンジュ』では違和感ない。
まず極端なパースだが、これは意見がわかれるところかもしれない。いわゆるスーパーロボットで多用される構図だが、いわゆるリアルロボットのように始まった『ガンダムSEED』では主人公だけがスーパーロボットのような構図で表現され、個人的には違和感があったものだ。しかしそれも3DCGで表現された『クロスアンジュ』のロボットには適度なデフォルメとして効果的だった。
ロボットの個性の少なさは、ドラゴン退治に特化した同種の機体と思わせることで、むしろ無個性が当然と思わせた。単調な戦闘も、居住地から離れて同じ基地から出撃しているし、武器も種類がないことから、しかたないことと感じさせた。そして単調な戦闘は長引かせず、どちらかというと仲間同士の口論や出撃前後のドラマに力をそそいだ。
物語にしたがった派手な画面効果と単調な戦闘そのものも、意外と見られるものだった。もともと架空の近未来カーレース『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』シリーズの監督をつづけ、『ガンダムSEED』の直前には『激闘!クラッシュギアTURBO』でミニカーのホビーバトルを3DCGで演出していた福田監督は、ロボット自体の動きよりも画面効果などの演出がうまくなっていたのかもしれない。
パロディの多用は、キャラクターの下品さと雰囲気が合っていたし、遠未来と多世界を描いている物語であるため設定的な納得感もあった。エログロの多用は、同じ場面を何度もくりかえさないことで、意外と乾いた印象で見やすかった。飛行形態で操縦席が開放されるロボットのデザインで、戦死を刺激的に表現したのはいっそ感心させられた。


ガンダム」の、特に初代をリメイクするような展開が、中途半端な独自設定と齟齬をきたしていたのが『ガンダムSEED』だった。むしろ物語から逆算するように設定するべきだった。
一方で『クロスアンジュ』は「ガンダム」と違って、プラモデルを売るため個性的なロボットを出すような制約がない。それゆえ、あまり器用ではない演出家の特化した技術にそって、ひとつの作品として構築できたのかもしれない。