法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「(池上彰の新聞ななめ読み)慰安婦報道検証」について

池上彰連載中止と掲載拒否のハードル - 法華狼の日記で掲載中止についてまとめたコラムが、紆余曲折をへて掲載された。朝日新聞側と池上彰側のコメントとあわせて、WEBでも確認できる。
http://www.asahi.com/articles/ASG935H4GG93UPQJ008.html*1
一読して、注目された部分を注目された方向性でまとめた、予想以上に「中立」的な内容だと思った。デマを流している読売新聞や産経新聞と、人権問題と認識はしている毎日新聞の中間くらいか。
それらの報道機関と同じく、過去の自身をかえりみるという態度も見られない。とりあげているのは朝日検証のみで、他紙についてふれるどころか、むしろ比較するべきでないと主張している。そして従軍慰安婦問題を検証した全体ではなく、一部の訂正記事のみを問題にしている。


まず、吉田清治証言についてふれた部分から見ていこう。

 過ちがあったなら、訂正するのは当然。でも、遅きに失したのではないか。過ちがあれば、率直に認めること。でも、潔くないのではないか。過ちを訂正するなら、謝罪もするべきではないか。

 6日付紙面で、現代史家の秦郁彦氏は、朝日の検証について、「遅ればせながら過去の報道ぶりについて自己検証したことをまず、評価したい」と書いています。これは、その通りですね。

 しかし、今頃やっと、という思いが拭い切れません。今回の検証で「虚偽」と判断した人物の証言を掲載してから32年も経つからです。

朝日の社会部記者が「吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという」と検証記事は書きます。この時点で、証言の信憑(しんぴょう)性は大きく揺らいだはずです。朝日はなぜ証言が信用できなくなったと書かなかったのか。今回の特集では、その点の検証がありません。検証記事として不十分です。

コラム全体として、「訂正」が遅れたことと、「謝罪」がないことを問うている。「検証」も遅かったという認識のようだ。
しかし訂正すべきという「この時点」がいつのことか、よくわからない。1997年時点の特集で検証記事を公開したことは朝日検証でも書かれている。
「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断:朝日新聞デジタル

 東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。

 97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

引用直後のことなのに、この特集を池上氏はふれていない。朝日検証が1997年の再確認と認識できていれば、おそらく違う表現になっただろう。
もともと朝日検証内でも、朝日新聞の対応が遅いと指摘するインタビューが掲載されていた。コラムで引用されている秦郁彦記事だけでなく、池上氏がふれていない吉見義明記事でも書かれている。
被害者に寄り添う報道必要 吉見義明さん(中央大教授):朝日新聞デジタル

証言が虚偽でもこの問題に与える影響はない。今回、関連する記事を訂正したことには賛成するが、問題の研究が進んだ1990年代の早い段階でできなかったかと残念に思う。

 慰安婦と女子挺身(ていしん)隊の混同についても同様に、もう少し早い対応が望まれた。

微妙な違いだが、こちらは1997年特集を前提にしても違和感ない表現だ。訂正が全体にあたえる影響についても書いている。おそらくは、同時代にとりくんだ研究者として訂正部分の比重を理解しているから、過ぎた批判をしなかったのだろう。
池上氏は朝日検証における訂正の比重を読み違えたまま批判しようとして、1997年特集を無視したコラムを書いてしまったのではないだろうか。
普段の朝日新聞ならば、自社批判であっても問題なく掲載するくらいの内容だとは思う。しかしこのコラムを掲載して誤解を広げることをよしとするならば、吉田証言を1992年にとりさげなかったこともよしとしなければなるまい。


従軍慰安婦と挺身隊の混同についても、同時代的な訂正と、訂正しなかったこと自体の検証を求めている。

「読者のみなさまへ」というコーナーでは「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました」と書いています。

 ところが、検証記事の本文では「朝日新聞は93年以降、両者を混同しないよう努めてきた」とも書いています。ということは、93年時点で混同に気づいていたということです。その時点で、どうして訂正を出さなかったのか。それについての検証もありません。

しかし、研究の変化にそって用語解説を変えた時、さかのぼって訂正を出す必要がどれほどあるか。
むろん努力目標として訂正を求めてもいい。しかし訂正しなかったことについて、わざわざ検証する必要があるのか。
はっきりいって、検証まで求めることは理解に苦しむ。


引用を前後するが、コラムでは他紙にふれたこと自体も批判していた。

証言に疑問が出たのは、22年前のことでした。92年、産経新聞が、吉田氏の証言に疑問を投げかける記事を掲載したからです。

 こういう記事が出たら、裏付け取材をするのが記者のイロハ。朝日の社会部記者が「吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという」と検証記事は書きます。

 今回の検証特集では、他紙の報道についても触れ、吉田氏の証言は他紙も報じた、挺身隊と慰安婦の混同は他紙もしていたと書いています。問題は朝日の報道の過ちです。他社を引き合いに出すのは潔くありません。

まず微妙な矛盾がある。「記者のイロハ」という努力目標をもちだしながら、具体的な他紙報道については「他社を引き合いに出すのは潔くありません」と批判している。その努力目標が適用されるべき報道の比重だったか、池上氏が検証しているようには読めない。
そもそも朝日検証は自紙の過ちを訂正するためのものではないだろうし、他紙報道を持ちだしたのも相対化だけが目的ではないだろう。当該記事を読んでも、訂正や謝罪は要求していない。あくまで現時点の認識をたずねていただけだ。
他紙の報道は:朝日新聞デジタル

 朝日新聞社は、ここで取り上げた記事について各社の現時点での認識を尋ねました。毎日新聞社産経新聞社からは次の回答がありましたが、読売新聞社は回答しませんでした。

 〈毎日新聞社社長室広報担当の話〉 いずれの記事も、その時点で起きた出来事を報道したものであり、現時点でコメントすることはありません。

 〈産経新聞社広報部の話〉 当該記事では、吉田清治氏の証言と行動を紹介するとともに、その信ぴょう性に疑問の声があることを指摘しました。その後、取材や学者の調査を受け、証言は「虚構」「作り話」であると報じています。

同時代における歴史研究の状況を示し、どのくらい証言や学説が信じられていたかを調べる。これは当時に報じた判断を「検証」するならば必要なことだ。
また、後追い報道で新たな情報をつたえることが事実上の訂正になるという慣例も明らかにされた。まさに「どうして訂正を出さなかったのか。それについての検証」となっているわけだ。
他紙報道にふれただけで批判したことから、このコラムの要求が「検証」でないことは明らかだ。


最後に、コラムで従軍慰安婦問題そのものについてふれた部分を引用しよう。

 朝日の記事が間違っていたからといって、「慰安婦」と呼ばれた女性たちがいたことは事実です。これを今後も報道することは大事なことです。

 でも、新聞記者は、事実の前で謙虚になるべきです。過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか。

短いため明らかな事実関係の誤りこそないが、朝日検証で明らかにされた間違いの範囲と、報道するべきという事実がかけはなれている。
強制連行されたりして国家に人権侵害された人々がいること、その人権侵害や国家責任を否認する動きがあること、そうした表現を抜きにして、ただ「いたこと」の報道を求めるだけ。なるほど、この表現ならば反発されることは少ないだろう。
しかし「日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性」が「いたこと」も事実だ。今後も報道することがなぜ大事なのか、このコラムからはわからない。それを明記することを恐れているかのように。
「潔く」を求めているコラムに潔さがないこと。これはコラムの妥当性や掲載拒否などより、はるかに深刻な問題と思える。

*1:以降、「コラム」と呼称を略し、直前にリンク元を示さない引用枠内はこのコラムから引用する。