川田文子『イアンフとよばれた戦場の少女』という書籍が2005年に出版された。1980年代から従軍慰安婦問題にとりくんで証言を収集していた著者が、出会ってきた証言者の人間像を書きしるそうとした一冊だ。
http://www.koubunken.co.jp/0350/0342.html
初めて実名で被害を訴えた金学順証言より以前から知られていた事例に興味をひかれつつも、克明に描かれた当時の状況に気がめいるばかりだったのだが、とあるくだりを読んで思わず声をもらしてしまった。
それは第2章「宋神道さんを訪ねる」で、証言者が在日コリアンとなった経緯で注記されていたこと。インターネットの下記ページでも証言の全体像が読めるのだが、私の印象に残った部分は、あくまで小さな補足情報にすぎないためか言及されていない。
【被害者証言】宋神道(韓国/在日) | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任
証言者は朝鮮半島出身。父が亡くなった後に16歳で嫁に出され、年上の夫に肉体関係をせまられて逃げたという。実家にも戻れないまま業者に騙されて従軍慰安婦となった。借金を負わされて、未成年なのに慰安所で働かされ、言葉も通じない日本軍人をおそれながら「慰安」をおこない、何度となく妊娠したという。そして敗戦後、行くあてのない証言者は、現地除隊した軍曹に結婚しようと約束され、日本に渡った。
注記に何が書かれているか説明する前に、前掲書や前述ページとの食い違いがWikipediaに多数あることを指摘しておく。
宋神道 - Wikipedia
宋 神道(ソン・シンド、1922年11月24日 - )は宮城県に在住していた在日韓国人女性。生活保護受給者として日本の宮城県で生活していたが、1992年1月に日本政府を糾弾する元従軍慰安婦を公募する市民団体に連絡し、元「従軍慰安婦」として政治活動を開始する。
まず、情報収集のため電話回線を開いた活動を「公募」と書いていることからして誤り。表現の主観性は目をつぶるとしても、情報収集が目的なのだから、元従軍慰安婦に限定した活動ではなかった。それに特定の市民団体ではなく複数の団体が協力した活動だ。
エラー - Yahoo!ジオシティーズ
1992年1月、「慰安婦」問題にかかわる4団体が主催して「慰安婦110番」ホットラインを開設。在日の元「慰安婦」被害者・宋神道さんとの出会いはそのとき寄せられた情報がきっかけでした。
裁判支援サイトに書かれているように、本人が連絡をとったわけですらない。前掲書によると、調査カードに「訪ねてみてください」という文章と住所がメモされていただけで、情報提供者は名前も住所も不明だという*1。情報提供が本人の意図かどうかもわからなかったため、聞きとりにいく著者には葛藤があったという。
この誤った記述はWikipedia2011年11月5日版にはじまり*2、表現の変更をくりかえしながら現在版まで踏襲されている。それ以前の版から前掲書も参考文献に入っているが、その時点では名乗り出た経緯が記述されていなかった。現在版は明記されていない別の出典にもとづいたため誤ってしまったのだろう。
Wikipediaの食い違いは他にもある。たとえば募集した業者について「知人の朝鮮人女性」と説明しているが、実際は証言者の母親の知人を自称したにすぎないようだ*3。
もちろん本題の在日コリアンになった経緯にも誤りがある。
戦後は日本に入国し(本人によれば、日本人男性から結婚を持ちかけられて来日したが、博多で逃げられてしまったため、そのまま日本に住んでいるとのこと)、宮城県に移住して在日韓国人男性と1982年ま同居生活をしていた。
くわしくは後述するが、元日本兵とともに日本へ行ったのは1946年のこと。1952年までは日本国籍をもっていたはずなので、「入国」という表現は誤解をまねく。特に関係が強くもなかった元日本兵からさそわれて、その突然さに証言者はとまどったそうだ。元日本兵には馴染みの慰安婦もいたが、空襲で亡くなっていたという。なお現地除隊していたそうなので、「日本人男性」という表現は必ずしも誤りではない。
「博多で逃げられ」という表現も不正確。中国漢口の日本租界で発行してもらった結婚の仮証明書のようなものを博多で奪われ、破られたのだという*4。しかしそれでも証言者はついていき、埼玉県にある元日本兵の実家に泊まったという。元日本兵に対して、実家にいた兄と老母は無責任だと責め、証言者をいたわったようだ*5。
小田は翌日、宋さんを大阪の鶴橋に連れて行きました。戦前から朝鮮人が多く住んでいた地域です。
「パンスケにでもなれ」
そういって、小田は去りました。
「アメリカの兵隊がいっぱいいるから、もとの『慰安婦』と同じように働けば食っていけるだろ」
と。あまりにもひどい仕打ちでした。
2〜3ヶ月くらい長靴工場で働いた証言者は、老母への土産をもって元日本兵の実家に行ったが、やはり元日本兵には結婚する気がなかった。家を出る時、老母はワンピース用の布地と、一升五合の米、さらに握り飯を証言者へ贈ったという。しかしそれらの物品も駅で盗まれてしまい、茫然としたまま乗った汽車から飛びおり、妊娠していた証言者は胎児を死なせてしまった。それは元日本兵との子供だったという*6。
そして妊娠していたのが元日本兵との子供だったという記述の注記に、証言をはなれた元日本兵の後日談が書かれていた*7。読みはじめた最初は戦犯裁判の記述かと思ったのだが。
注3.小田は、一九五一年、宮城刑務所で死刑となった。その判決文によれば、小田が「朝鮮女」と漢口にいたのは一九四五年九月中旬から四六年四月初めごろまで。五月、「内地」に引き揚げ、つまり、博多に着き、七月に知り合った隣村の女性との結婚を急ぎ、婚礼の費用を小学校時代の友人に借りに行くが不在で、帰宅を待っている間、その妹を強姦・殺害し、金を探すがなかったため腕時計などを盗んで逃亡した。
このように当時の裁判資料で帰国証言が裏づけられたわけだが、陳腐な表現とはわかりつつも「心の闇」という言葉が脳裏をよぎった。
むろん個人の行動を全体に当てはめるのは安易なことだ。この事件の背景に戦争の後遺症があるかどうかもわからない。
それでも、もし戦争がなければ何かが違っていたのではないか、そう思わずにいられなかった。
*1:45頁。以降の頁表記もふくめて、全て前掲書より。
*2:http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AE%8B%E7%A5%9E%E9%81%93&direction=next&oldid=39882083
*3:51頁。
*4:この誤謬は、先述した裁判支援サイトの簡易な説明文を参照したためかもしれない。http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7486/sonsindo/index.html
*6:74頁。
*7:77頁。