法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』を読む

・当初から低めだった重要性と、検証が難しかった原因
済州島での募集すべてが暴力的だったとは書いていない
・否定された命令書は、慰安婦に給料が出ていたという内容
従軍慰安婦と挺身隊を同一視はしていない
・軍事機密だったため全貌はわからないと明記
・日本人慰安婦についても言及されている
・軍令や暴力は強制連行の必要条件ではなかった
・歴史研究には使えず、加害申告としては過少

当初から低めだった重要性と、検証が難しかった原因

朝鮮半島済州島において、著者自身が参加した従軍慰安婦募集について、『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』で初めて証言したとされている。
ただし、著者は1977年の『朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記』から従軍慰安婦問題に言及している。あくまで命令で強制募集したという証言を書籍化したのが1983年ということ。書籍内には強制募集を証言した1982年講演も収録されている。
この吉田証言は1990年代初頭まで複数のマスメディアが報じていたが、それで日本政府が動くことはなかったらしい。日本政府が見解を変えたとされるのは、1991年の実名被害証言と、1992年の関与資料発見からとされている。それらに比べれば政治的な重要度は低かったと考えられる。


この吉田証言を、報じた複数のマスメディアで朝日新聞が初めて明示的に記事を撤回したことで話題になった。済州島の現地取材だけでなく、複数の歴史学者や親類の証言にもとづき、採用できない証言であると判断したという。
「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断:朝日新聞デジタル
ただし、吉田証言は1992年の秦郁彦調査から国内で異議がとなえられ、著者自身も研究者に対して時期や地域を改変したと語り、歴史研究においても1990年代なかばから重視されていなかった。代表的な研究者のひとり吉見義明教授などは、1992年の『従軍慰安婦資料集』でも1995年の岩波新書従軍慰安婦』でも言及しておらず、1997年の共著『従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実』で否定的に言及したくらいだった。
日本軍による加害の実在が確認されてからは、いつどこでどのように制度が運用されたかが歴史研究の争点となっていた。悪意ある虚偽でなくても、すでに明らかにされている加害の実在しか保証されない証言であれば、研究で重視されることはない。
全体から見て重要度が低かったこと自体、わざわざ検証や撤回がされなかった一因だろう。


そもそも1991年以降、多くの証言や資料がほりおこされ、吉田証言の重要度は落ちていった。その1991年の実名被害証言からして、騙されて慰安婦になったという内容だ。吉田証言で示された軍令による強制募集は、否定される前から問題視できる必要条件ではなかった。
朝日新聞をはじめとして、多くのマスメディアが1993年ごろには肯定的に報じることをやめた。朝日新聞は1997年にも著者から事実を確認できなかったため真偽わからない証言と報じていた。そのことは朝日検証でも書かれているのだが、なぜか従軍慰安婦報道の根幹に置きつづけていたかのような誤認がされている。
なかには軍令による強制的な募集があったことや、強制連行されたことまで撤回したかのような明らかな誤認も見られる。現実には朝日検証でまとめられているように、秦郁彦調査で懐疑される前から別の強制募集があったことは確認できていた。「強制連行」という言葉が指す範囲も広く、朝日新聞は最も慎重に表記していたようだ。
強制連行 自由を奪われた強制性あった:朝日新聞デジタル

読売、毎日、産経の各紙は、河野談話は「強制連行」を認めたと報じたが、朝日新聞は「強制連行」を使わなかった。

インドネシアや中国など日本軍の占領下にあった地域では、兵士が現地の女性を無理やり連行し、慰安婦にしたことを示す供述が、連合軍の戦犯裁判などの資料に記されている。インドネシアでは現地のオランダ人も慰安婦にされた。


一方、それでもマスメディアが吉田証言を報じる時から慎重に検証すべきだったと考えることはできる。
しかし、多くの資料や証言によって従軍慰安婦問題の全体像が明らかになったことからこそ、吉田証言が少なくとも典型例ではないと判明した。そこには資料の公開や調査をこばんでいた日本政府の責任もある。事実にもとづいて吉田証言を否定したかったのなら、多くの被害証言者に感謝するべきなのだ。
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/uesugi01.htm

多くの研究者の関心は、吉田批判がなされた当時すでに同氏の証言の真偽へ向いてはいなかった。むしろ「強制」の内容の方に関心が集中していたのである。次々と被害者が名乗り出ていたことで、統計的な処理も可能となり始めており、暴力的な連行そのものは限られたものであることが判明していたからである。たとえば、1992年末に市民や研究者の呼び掛けで「日本の戦後補償に関する国際公聴会」が東京で開かれたとき、韓国からの研究報告は、二六%が「奴隷狩り」であり、六八%が「だまされて」であったことを明らかにした(戦争犠牲者を心に刻む会編『アジアの声』第7集、東方出版)。台湾でもその数値に近く、さらに限られた数だが「自発的に」というものもあった。

同時代に検証ができなかった他の理由として、当時の韓国が軍事独裁政権であったことも考えられるだろうか。現地調査は1989年の済州新聞が初めてと考えられており、日本からの秦郁彦調査は1992年になってからだ。
1992年以前からマスメディアだけに検証不足の責任を負わせるのは、河野談話従軍慰安婦証言にもとづくという「誤報」で2014年以前からマスメディアに責任を負わせるようなものだろう。


しかも、日本国内からの大きな批判は初証言から10年以上もなかった。これは慰安所にかかわった多くの人々が見ても、否定したくなるような明らかな誤りがなかったと考えるべきではないか。これは証言が完全な虚偽だったか、詳細を隠しただけかという論点とは関係ない。現在なされている批判が当時から可能だったか疑わしいという推測だ。
そこで実際に書籍を確認してみると、たしかに強制募集の記述に違和感はある。現在は傍証としても使えないという感触をもった。しかし、いくつかの批判を根底からくつがえす内容であることもわかった。

済州島での募集すべてが暴力的だったとは書いていない

済州島の女性を集めるよう軍令がくだったという証言は、第三話*1から始まる。ここが当時の命令系統から考えておかしいとされ、否定する根拠のひとつになっている。
内容を見ると、徴用隊と軍隊あわせて二十人ほどでトラックに乗り、沖縄本島より大きな済州島を数日まわり、205人を集めたという。朝鮮半島とは文化や統治で違いのあった済州島でのこととはいえ、民間業者を利用しなかったことは不思議ではある。
その募集方法にしてもエピソードとしてバラエティがありすぎる。たしかに違う地域と場所の出来事をひとまとめにしたかのような違和感があった。自伝的小説や戦記にまま見られる、時系列の組みかえに似ている。しかしその多種多様ぶりで、結果的に暴力的連行だけを問題にしていたわけではないとわかった。


まず著者は道路ぞいの小部落で「女の狩り出し」*2をおこなった。木剣や銃をもって民家に突入し、女性を無理やりひきずりだした。当時の済州島では日本軍が駐留警備していたが、それでも百人以上の住民が徴用隊をとりかこみ、二十人から三十人の屈強な男が歯をむきだして叫んだため、銃剣で蹴散らさざるをえなかった。これはフィリピンやインドネシアの事例とそっくりで*3、逆にいうと併合してからが長い植民地らしさは薄い。
次に著者は小川で洗濯していた女性たちを捕まえようとしたが、断崖から海に飛びこまれて逃げられた。済州島には海女が多く、兵隊より海岸の岩場での動きはたくみだったという。
軍に納品しているボタン工場にも行き、女工の名簿を提出させた。朝鮮人の社長は難色を示したが、工場に兵士が乗りこんで出入り口をかため、16人を徴用した。ここが秦調査で否定されたわけだが、年老いた女工が「あんたたち、朝鮮人の女をどうするのか。朝鮮人もニッポン人やないか」と著者にいったという記述が印象に残る。吉田証言は、当時は朝鮮人も日本人とされていた建前を前提としているのだ。


そして漁業していた女性や塩乾魚工場の女性を暴力的に連行していった著者だが、腸詰工場から別の手法を使いはじめる。伝染病の予防注射をすると称して、女性に抵抗されることなくトラックへ乗せていったのだ。
さらに海岸で働いていた海女に対しては、良い仕事があるともちかけて騙した*4

足が男のようにたくましくて、四十歳過ぎと思われるアマが、大声で隊員に食って掛かっていた。
「あんたたち、なんの用事か。ニッポン人につかまるような悪いこと、なんにもしてないよ」
「お前には、用事はない。黙ってろ」
「それ、わたしのむすめよ。なにするのよ」
「お前の娘にしてはべっぴんじゃの。海で貝をとるより、日本人のところで働けば金になる。月に三十円もらえるぞ」
 ここのアマたちは、慰安婦の徴用のことなど知らないようだった。アマたちは朝鮮語でうるさくしゃべりだしたが、逃げようとする者はなく、日本人が役所の仕事に女を集めているとでも思ったらしい。

別の海女集団に対しても、舟艇やトラックで帰宅させてあげると騙し、疑われることなく乗りこませたという。ここで慰安婦募集にまつわる記述が終わった。


流れを見ていくと、武力による募集では抵抗や失敗に手を焼き、騙す手法へと切りかえていったことがわかる。その切りかえの早さが、数日間での徴用としては違和感を生んではいる。全体での出来事を一地域に押しこめたなら、現地から異論が出るのは当然だろう。
しかし第三者国に吉田証言が信じられているとして、そのようなことは済州島以外でおこなわれたと反論することが、どれほど印象の違いを生むだろうか。
しかも実行者を別とすれば、この時点から騙して集めることも問題視しているとわかる。つまり暴力をともなわない募集があったという主張は、吉田証言への反論にならない。むしろ先に述べたとおり、実際の加害は吉田証言より広範囲でおこなわれたと現在の歴史研究では考えられている。

否定された命令書は、慰安婦に給料が出ていたという内容

朝日検証の済州島記事には、下記のようなくだりがある*5

 吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。

たしかに1982年の講演をまとめた付録1に、妻の日記に残されたという記述と、命令書の具体的な内容が書かれている*6

下関支部に下った命令の、これは私が家内に当時しゃべったか見せたかしたので、家内の日記の中にそれがありました。読んでみますと次の内容です。
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊二〇〇人。年齢一八才以上三〇歳未満。既婚者も可。但し妊婦を除く。
一、身体強健なる者。医師の身体検査、特に性病の検診を行うこと。
一、期間一年。志願により更新することを得。
一、給料、毎月金三〇円也。仕度金として前渡金二〇円也。
勤務地、中支方面。
動員地区、朝鮮全羅南道済州(チョンラナムド・チェチュ)島。
派遣日時、昭和一八年五月三一日正午。
集合場所、西部軍第七四部隊内。

この命令書は第三話の序盤にも書かれている。「性病」と「花柳病」が違っていたりと、細部の表現が異なっているが、ほぼ同じ内容だ。
興味深いのは、更新は志願という建前が書かれていること、そして給料や前渡金が明記されていること。内部の命令書という設定だから、給料が募集のための虚偽とは読みとれない。


つまり吉田証言は、慰安婦への給料は出ていたことを前提として、それでも募集に苦労したという話だったのだ。給料が出ていたという認識を持っていれば、吉田証言への反証とはならず、むしろ傍証になったろう。
吉田証言の撤回で強制連行が否定されたと報じるなら、慰安婦に給料が出ていたことも否定されたと報じるべきだ。もちろん吉田証言が撤回されても、強制連行があったことや給料が出ていた証拠は残されている。
なお現在の歴史研究では、前渡金が膨大な借金となって女性をしばりつけたこと、給金から経費がさしひかれて生活が苦しかったことが明らかにされている。ここでも吉田証言より被害の範囲は広かったのだ。

従軍慰安婦と挺身隊を同一視はしていない

命令書に「挺身隊」とあることから、吉田証言でも慰安婦と挺身隊を混同していると考える人もいるかもしれない。しかし呼称についての記述を見ると、けっこう慎重な内容になっていることがわかる*7

 女子の勤労報国隊が女子挺身隊と改称されて、女学校生徒や地域の処女会(女子青年団)の軍需工場勤労奉仕は女子挺身隊と呼ばれていたが、皇軍慰問の女子挺身隊とは、「従軍慰安婦」のことであった。「従軍慰安婦」のことは新聞やラジオでは一度も報道されなかったが、戦地にも慰安婦という売春婦がいることは、一般国民へ知れわたっていた。

全ての挺身隊が従軍慰安婦だったという記述ではない。どちらかといえば従軍慰安婦の存在を隠すため、挺身隊という既存の言葉を利用したという表現に読める。
よく似た記述は、前後して第一話にも存在する*8

女も関釜連絡船で下関へ強制連行されてきた。強制連行された朝鮮人女子の集団を、「朝鮮人女子挺身隊」と称していたが、軍需産業女工にするため徴用したのではなく、「皇軍慰問」を義務づけて、中国や南方の戦地へ派遣していたのである。この「皇軍慰問」とは、帝国陸海軍将兵への「性的慰問」のことであって、「従軍慰安婦」と呼ばれていた。

ここでは当時から「従軍慰安婦」という言葉が使われていたとある。しかし第三話の記述とあわせれば、当時は「慰安婦」が一般的に知られた言葉だったと解釈するべきだろう。
千田夏光著作によって『従軍慰安婦』という言葉が広まったわけだが、それ以前に使用例がないわけではない。この記述だけでは明らかな誤りかどうかわからない。

軍事機密だったため全貌はわからないと明記

第一話では現地募集者としてではなく、連行中継者として知った慰安所について書いてある。そこでは、実態が明らかにされていない当時の状況を批判していた*9

従軍慰安婦」に関する事項はすべて軍事機密にされていて、当時の朝鮮人動員業務の一県の実務責任者であった私にも、その実態は分からなかった。戦後も「従軍慰安婦」の精度に関与した元高級軍人や関係諸官庁の元高官の中に、その実態について書きのこしたり、事実の一端でも公表した者は、一人も現れることなく、日本の朝鮮侵略の中で、世界史に類例の無い暴虐行為の事実が、日本の歴史から完全に抹消されてしまっている。

いささか誇張された記述ではあるが、はっきり間違いということも難しい。1978年に『終りなき海軍 若い世代へ伝えたい残したい』に中曽根康弘海軍主計士官の証言がのっていたが、鹿内信隆フジサンケイグループ会議初代議長の『いま明かす戦後秘史』は出版されていなかった。
それより注目すべきは、実態がわからなかったと明記してあるところ。吉田証言は、一部に関係した一個人の証言という範囲にとどまっている。否定される前から、従軍慰安婦問題の全体像を決定するものではなかったのだ。


ちなみに地域や個人につながる情報も少ない。
地域や時期が編集されていることは後に告白されたが、そもそも慰安婦狩りをおこなった部落名がほとんど書かれていない。秦調査がボタン工場のあった地域でおこなわれたのは、そこくらいしか具体的な地域名が出ていないゆえだったのかもしれない。氏名については、「本人や遺族から公表することを拒否され、すべて仮名にしました」*10と付記されている。


具体性のなさは、吉田証言が虚偽だった傍証になる。同時に、やはり最初から重視されにくい証言だったといえる。
重要人物の証言が存在しなかったからこそ、吉田証言は長く疑われなかったのだろう。意図的な嘘であれば、なおのこと簡単にばれる内容にしなかったろう。逆に重要人物が証言すれば、吉田証言は虚偽とわからなくても重要度は下がっただろう。
多くの実名証言が出てきた1991年以降から、従軍慰安婦にまつわる報道が増えた時期において、吉田証言に言及した比率が下がったのも当然だ。

日本人慰安婦についても言及されている

著者による慰安婦狩りが必要になった経緯が第三話で説明されている*11。あくまで九州と朝鮮半島を行き来していた人物の視点としては、明らかな誤りとはいいにくい。

 支那事変(日中戦争)がはじまると、軍は遊郭や女郎屋の主人を軍属扱いにして、戦地で営業をさせていたが、戦線が拡大するとその数が不足して、占領地における皇軍将兵の婦女暴行が、支那民衆の抗日運動や、支那軍の徹底抗戦を招き、反日的な支那の新聞によって国際的にも宣伝されて、皇軍の名誉を失墜させ、大東亜共栄圏建設の大義をかかげた聖戦の汚点ともなった。そのためやむなき施策としての「従軍慰安婦」の動員であったが、日本婦人は銃後の大和撫子で、出征兵士の家族や親戚であって、慰安婦に徴用したりすれば皇軍の士気に影響する。陸軍省は、「聖戦の為、大義親を滅する施策なり」と付記した極秘通牒を発して、朝鮮人女子を慰安婦に動員するようになった。

ここだけを読むと、従軍慰安婦朝鮮半島出身者だけだったと誤読するかもしれない。しかし前後した第一話に、1939年ごろの目撃談として、日本出身者も慰安婦にふくめた記述がある*12

当時既に、各部隊本部の所在地に、「慰安所」が設置されていた。「慰安婦」は、防諜と占領地区の住民の宣撫工作のため、支那人(中国人)の女を置くことは禁止されていて、日本人の年増の娼妓が四、五人と朝鮮人若い女ばかりが二、三十人いた。中支の奥地に多数の朝鮮人が住んでいたわけではなく、女たちは朝鮮から連れてこられたと話していた。中支の奥地の占領地区は、支那軍の「便衣隊」(平服のゲリラ)が出没して、各部隊の警備地区ごとに、日本人でも民間人は、交通や居住が厳重に規制されていた。そんな情況のもとで、戦時統制下の朝鮮半島朝鮮人若い女を集めて、中支の奥地の占領地区へ輸送して、「慰安所」を設置することは、各部隊長の許可をもらったとしても、当時の日本人や朝鮮人の民間人が、女衒などを使って、出来る仕事ではなかった。戦地の「慰安所」の設置は、帝国政府が制度的に行わなければ不可能な事であった。

この後、将校用慰安所では日本人慰安婦や若い朝鮮人慰安婦が集められていることや、舞台で踊っている芸者も慰安婦とみなされていたこと、作戦開始前に兵士が慰安所で列をなしていたこと、等々の記述がある。
つまり吉田証言は、朝鮮人慰安婦だけだったとか、すべての募集で日本軍が強要したとかいった内容ではないのだ。


念のため、現在の研究からすると日本人と朝鮮人しかいなかったような民族比率に違和感はある。それに元売春婦であれば日本軍の責任はないかのような解釈につながりかねない問題も感じた。
実際には、占領したばかりの地域において、遠くから移送したのでは女性が足りず、現地で集められたこともある。そのため中国奥地では現地募集した慰安婦も存在しつづけた。しかも支配のための抑圧をかねて、暴力的な募集と拘束もおこなわれていた。
慰安婦にされた女性たち-その他の国々 慰安婦問題とアジア女性基金

 中国は日本軍の慰安所が最初につくられたところです。その数多くの慰安所には、朝鮮人、台湾人、日本人のほか、中国人の慰安婦も多く集められていました。

 このような都市、駐屯地の慰安所とは、別に、日本軍が占領した中国の農村部において、兵士たちが村の女性をレイプし、一定の建物、場所に監禁し、レイプをつづけるということが行われたという証言があります。

ここでも、吉田証言より被害の実態は大きかったと考えられる。

軍令や暴力は強制連行の必要条件ではなかった

題名にあるように、この書籍は慰安婦にかぎらない強制連行全般をとりあつかっている。第一話は連行中や連行後の悲劇についての解説、第二話は肉体労働者として男性を狩り出したことが書かれている。
朝日新聞の吉田証言記事でも、慰安婦とは別個の強制連行をとりあげたものがあった。もともと慰安婦は吉田証言の一部だったのだ。
恐るべき朝日新聞の洗脳力 - Apeman’s diary

この記事には「慰安婦」の3文字は登場しません! 炭坑や土木現場での労働のために朝鮮人を送り込んだ、という「体験」が語られているだけです。

こうした徴用について、まえがきで著者は「ドレイ狩り」と表現している*13

日本人の徴用とはその取り扱いが異なり、朝鮮半島の徴用は、「ドレイ狩り」のように行なわれていた。

その実態について第一話を見ていくと、「強制連行」という言葉の意味あいについて、決定的といっていい記述があった。「朝鮮人の強制連行には三種類あった」といい、時期ごとに説明しているのだが*14

その一は、「日韓併合」によって、大正時代から行われていた方法で、全国の炭鉱、鉱山、ダム工事、トンネル工事などの労務者の「募集」による連行であった。それは専業の周旋人が行っていて、ほとんどいれずみを入れた連中が従事して、わずかな前渡金で朝鮮人をだまして集める「募集」であって、炭鉱、鉱山、土木建設会社等の専属の労務供給業者へ、連行した朝鮮人を、「人身売買」していた。

各種法令が公布されて違法となったが、朝鮮総督府と日本の警察は、戦力増強・戦時物資増産に貢献しているという理由で、取り締まりを行なわず、昭和二十年の春まで公然と行なわれていた。

その二は、「官斡旋」の統制法規に従って行なわれた強制連行であった。

申請して許可証の交付まで三か月以上もかかって、全国の重要事業所は労務者の不足が続いて、従来の方法のヤミ周旋人の「募集」による朝鮮人の受け入れの方が、「官斡旋」の徴用朝鮮人よりも人数が多かった。

その三は、陸海軍の「労務動員命令」による強制連行であった。

昭和十八年(一九四三)以後は、各県に陸海軍の「労務動員命令」が多くなり、建設労務者の大工・佐官・とび・石工・土工等の緊急動員が、「労務報告会支部」へ命令されるようになった。

民間人が騙して募集することを「強制連行」にふくめ、それが官斡旋より多かったことも明記している。


誤認を広めたとされる吉田証言ですら、実際はこうなのだ。
もともとの意味が広かったことは朝日検証で指摘されていたし、騙されて従軍慰安婦になったという1975年の報道でも「強制連行」と表現されていた。
慰安婦を騙して集めたことを、1975年の新聞記事は「強制連行」と表現していた - 法華狼の日記
民間業者による募集を強制連行と呼ぶことは、議論の後退ではありえない。むしろ論点の維持だと断言して良いのではないか。

歴史研究には使えず、加害申告としては過少

最後に、この著書から信憑性を感じるかというと、さほどでもない。描写に迫真性はあっても具体性が足りない。先入観もあるだろうが、さまざまな地域における加害がひとまとめにされたような違和感がある。まえがきで断っているとはいえ*15、女性や民族への蔑視がつづくのも読みづらく、済州新聞記事で嫌悪感を表明されたのも当然と思えた。
とはいえ、証言や資料が不足した1990年初頭までならば、そうした違和感をもつことも難しかったろう。中国慰安所についての目撃証言にいたっては、今でもひとつの観点として違和感ない。


そして、現在の研究からすると加害認識は過少といっていい。慰安婦の出身地は日本と朝鮮半島だけで、占領地における広範な事例はうかがえない。給料が出たという命令書だけ紹介され、それでも生活苦におちいったことは説明されていない。
もし吉田証言が注目されず、あるいは否定されず、最近になって知られたらどうだったろう。現在もソースロンダリングされている日本人捕虜尋問報告第49号のように、都合のいい部分だけトリミングされ、日本の責任を否認する材料に使われたかもしれない。
「テキサス親父」が存在を確認した尋問調書は、たしかに重要だ……ただしそれは慰安所の非人道性の証拠としてであり、そもそも昔から知られていた資料だが - 法華狼の日記
「慰安婦像設置に抗議する全国地方議員の会」が、2ちゃんねる情報をグレンデール市に反論材料として送っていたことが判明 - 法華狼の日記
本当に吉田証言が国外の従軍慰安婦観を形成しているならば、済州島現地を除けば、むしろ印象は実態より緩和されそうにすら思える。


いずれにせよ、この証言が受けいれられた当時の認識をうかがい、証言に対する現在の批判がどれほど正確か知るには、読む価値があった。
少なくとも「強制連行」にまつわる記述によって、吉田証言が否定されるまで軍令や暴力による募集が問題視の必要条件だったという主張は、はっきり誤りだとわかった。

*1:済州島の「慰安婦狩り」」が章題。念のため、第三章という表記ではない。

*2:『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』107頁。以降、断りなき引用頁および直前に引用元を示さない引用枠内は、すべてこの書籍から。

*3:吉見義明研究はもちろん、秦郁彦研究でもフィリピン等で暴力的な募集がされたこと、それにより住民の反発があったことは認めている。林博史教授サイトの加害証言まとめページを紹介しておく。http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper02.htm

*4:143頁。

*5:朝日記事からはわかりづらいが、4頁目に「この記録は、四十年近い過去の事実を、現在まだ生きている当時の部下たち数人と何回か語りあって思い出したり、現地から亡妻や親戚友人たちへ、労務報告精神を誇示して書き送っていた私の手紙を回収したりして、記憶を確かめながら書いたもの」とあり、著書を出した時すでに亡くなっていたようだ。記憶にもとづくこともここで明記されている。

*6:156頁。

*7:101頁。

*8:20頁。

*9:21頁。

*10:151頁。

*11:102頁。

*12:21〜22頁。原文は「女衒」に「ぜげん」とルビあり。

*13:3頁。

*14:12頁。

*15:4頁目に「当時の日本人の実態を書き残すため」「差別用語を本文中にあえて使用する」とある。