法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

慰安婦を騙して集めたことを、1975年の新聞記事は「強制連行」と表現していた

川田文子『イアンフとよばれた戦場の少女』は、女性たちがすごした日々を鮮烈に描いたルポタージュであると同時に、従軍慰安婦問題への日本社会への態度が変化していった記録としても読める。
http://www.koubunken.co.jp/0350/0342.html
著者は1980年代から従軍慰安婦問題にとりくみつつ、アジア女性基金前後の補償要求活動にも協力し、どのように日本社会が従軍慰安婦問題と距離をとってきたかを見つづけていた。
その第1章「ペ・ポンギさんとの出会い」を読んでいたところ、引用されている報道記事が目に止まった。1975年10月22日の高知新聞記事で、沖縄在住の従軍慰安婦から初めて直接の証言がえられたことを報じている*1

戦時中、沖縄に連行の韓国女性 30年ぶり『自由』を手に 不幸な過去を考慮 法務省特別在留を許可
 【那覇】太平洋戦争末期に、沖縄へ『慰安婦』として連行され、終戦後は不法在留者の形でヒッソリと身を潜めるように暮らしてきた朝鮮出身の年老いた女性が、このほど那覇入国管理事務所の特別な配慮で三十年ぶりに『自由』を手にした。当時は『日本人』でも、いまは外国人。旅券もビザもないため、強制送還の対象となるところだったが『不幸な過去』が考慮され、韓国政府の了解を得たうえ、法務省はこのほど特別在留許可を与えた。…略…沖縄戦へ強制連行された朝鮮人の証言が、直接得られたのは初めてだ。

1972年に沖縄の施政権が日本政府へ返還された時、1945年8月15日までに来日していた朝鮮半島出身者にかぎり、3年間の期限内に申告することで特別在留を許可できるとされた。
証言者は不幸中の幸いにも、申告の10年前に働いていた料亭の主人の娘婿が身元引受人になり、生活保護を受けることができるようになった。その過程で従軍慰安婦であったことが着目されたという。


新聞記事に「強制連行」と明記されているが、この証言者は出入国管理局のとりしらべに対して、業者の甘言に騙されて募集に応じたと答えていた*2

日本人と朝鮮人、二人組の「女紹介人」に声をかけられたのです。「女紹介人」は、「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていても、バナナが口に入る」などと暖かい南の島が楽園であるかのように甘いことばで誘いました。

むろん募集時とは別個に、沖縄までの移送において、日本軍の艦船が使われたことも証言していた。軍が連行にかかわっていたことは間違いない。

下関で一度、シンガポールに向かうという日本軍の船に乗りました。ところが、翌朝、下ろされて門司で半年くらい待機していました。この間に数人の女性が逃亡しました。
 一九四四年一一月、五一人の女性は鹿児島に移され、日本軍の輸送船に乗せられました。

証言者が甘言で集められたことは、一昨年の没後20年報道でも重ねて確認されている。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-187637-storytopic-1.html

 ペさんは1944年にだまされて連れてこられ、渡嘉敷島慰安所で1日20〜30人の日本兵の性の相手をさせられた。戦後も故郷には帰らず、県内で暮らし91年10月に那覇市内で死去した。
 金夫妻がペさんと出会ったのは75年。当時のペさんは他人を拒否する状態。夫妻は行っては断られ、追い出され、心を開いてくれるまで3年近くかかったという。

証言者は、作男の子供として生まれ、口減らしのために他家に無報酬で預けられ、その後も極貧の生活を送っていた。貧しい家庭しか持てずに、離婚と再婚をくりかえしていた*3。当時29歳だった証言者が、苦しい生活に追いつめられて甘言にのってしまうのも、無理のないことだったろう。
ちなみに証言者本人は成人していたわけだが、同じ慶良間の慰安所で働いていた7人で、最も若い2人は当時15歳くらいだったと証言している*4。いうまでもなく、合法的に売買春がおこなえた当時であっても、未成年者に慰安をおこなわせることは違法であった。むろん成人さえしていれば問題ないというわけではないが、証言者自身の被害の訴えに直接はつながらないこともあって、あらためて重要な証言と考えることができるだろう。


ただし記事全文が『イアンフとよばれた戦場の少女』に引用されていないため、証言者がどのように慰安婦となったかを記者が把握していなかった可能性がないとはいいきれない。
問題の記事は共同通信配信なので、各地方新聞で報じられていると予想できた。そこで当時の地方新聞をいくつか探してみたところ、1975年10月22日の愛媛新聞夕刊で全文が確認できた。証言者の写真とともに第1面に掲載されていたが、募集にかかわる部分を引用する。

だまされ強制連行『慰安婦』に
 昭和十九年春、借金に悩んでいたとき『シンガポールでいいもうけ仕事がある…』と誘われ、釜山に出た。そこには朝鮮人女性が約五十人いた。“もうけ仕事”というのは兵隊相手の仕事であることをそこで初めて知った。
 釜山から門司、鹿児島を経て那覇に移った。那覇で五十人は散り散りになり、裴さんら七人は第三十二軍海上特攻隊が陣取る渡嘉敷島に渡った。
 島では想像を絶する悲惨な生活を強いられた。

騙されて集められても「強制連行」と表現し、それを本文だけでなく見出しでも明記している。1975年の記事だから、従軍慰安婦強制連行説の原因と名指しされがちな吉田清治証言とは、もちろん関係ない。
これは目にする機会の少ない専門書などではなく、当時から一般的な新聞に掲載されていた。こうなると新しい疑問が生まれてくる。騙して集めることが強制連行ではないという主張がされるようになった理由と時期だ。


かつて1990年の国会において、企業が集めた事例も強制連行にあたるのではないかと野党が追及したが、日本政府は調査をしなかった。
従軍慰安婦の強制連行を狭義にとどめない問題意識は、1990年以前から確実に存在していた - 法華狼の日記
1975年の新聞記事と比べて、日本社会は「強制連行」という言葉の意味をせばめた。その動きは現在までつづいている。
戦争犯罪の条件を制限することは、批判が当てはまらないかのように錯覚させる詭弁に結びつく。
やはり「強制連行」の場合も同じ詭弁なのだろう。

*1:11〜12頁。「…略…」は原文ママ。後の引用もふくめて、新聞記事の見出し部分を太字強調した。

*2:前掲書19頁。

*3:前掲書18〜19頁。

*4:前掲書21頁。