法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

TVアニメ『魔法科高校の劣等生』を見て納得できる視聴者はいるのか

とりあえず第3話まで見た今のところ、私自身は無理だった。もともと原作も、アマチュアWEB小説として原作が大人気だった時に読もうとしたが、機能しない設定ばかり垂れ流される筆致そのものが読みづらくて、すぐに投げ出してしまった。
とりあえずTVアニメ化されて、初回のアバンタイトルで激しい戦闘が描かれ、原作ほど説明過多でもなく、それなりに興味を失うことなく見ることができたのだが……主人公の凄さを表現する展開のパターンが、映像作品としてひどすぎる。


第一に、動きのなさが根本的につまらない。激しく動くことなく敵を倒すことは凄みを演出する一手法ではあるが、この作品の魔法戦では敵も棒立ちな上、格闘戦でも時間をとらずに倒すため、アニメーションを見る楽しみがない。同期のTVアニメ『シドニアの騎士』も、主人公の劣等的な立場や特異な強さ、膨大な設定といった類似点が多いが、情景が絵になるかどうかで印象が段違い。
第二に、主人公の勝利できた理由を台詞で説明するのがひどい。戦いが終わった後、周囲の観戦者が棒立ちで口々に主人公の凄さを称賛しつづける。つまり勝利の結果として動きのない映像を長々と見せられるわけで、主人公の勝利を願いたくなくなる。これならば少年漫画でよくあるように、戦闘中に観戦者が状況を解説するべきだと思った。むろん多少の説明が必要なことはあろうが、それでも映像として楽しめる説明であってほしい。
第三に、設定が主人公を称賛するためにあることが露骨すぎる。主人公の勝利後に基本設定と例外設定が開陳されるため、あたかも後づけ設定のように感じられる。せめて作品世界の基準となる基本設定を描いておき、それを凌駕する主人公の例外設定を説得的に描いてほしい。先に踏み台の高さを感じさせておかないと、主人公が昇っても高く見えない。


原作はくわしく知らないので、TVアニメ化にあたってどのように改変されたか明確にはわからない。
しかしアニメ作品として考えていくと、初回で主人公の凄みを表現するため先に必要だった描写が少なくとも二つある。主人公と敵対する森崎が魔法を早く使える能力を持っていることと、どのような魔法なのかは発動した後でないとわからないという設定。そうした基準があってこそ、発動前から魔法の種類がわかる主人公の例外ぶりがわかる。
たとえばアバンタイトルは主人公の戦闘ではなく、森崎が誰かと魔法試合をおこない、それを主人公が見かけるような内容であればどうだったろう。魔法は発動した後から種類がわかるので先手をとるべきだとか、圧倒的に早い発動で森崎が先手をとって勝つとか、アクション描写で設定を説明できる。その時に作品世界の差別意識も念入りに描いておけばいい。
その場その場だけで主人公が称賛されているのを見ると、人形のかついだ神輿に乗せられているようで、いつ落ちるか不安になってくる。踏み台の上で恰好をつける主人公も悪くはないが、せめて踏み台は頑丈そうに見せてほしい。


あと精神的につらいのが、主人公に対する妹の崇拝ぶりと恋慕。今のところ主人公を崇拝する場面ばかりで、社会階級を場面ごとにひきあげるための装置でしかない。
同期のTVアニメ『ノーゲーム・ノーライフ』の主人公兄妹も依存しあっているが、恋慕はともかく肉欲は向けられないとはっきり考えていたり、いくつかの線引きをして独立した人格になっているから、ずっと見やすい。