法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

インドネシアの従軍慰安婦問題は日本の弁護士が焚きつけたというデマ

高木健一氏が池田信夫氏を告訴したらしいので、安倍晋三氏が流したデマについて指摘しておく - 法華狼の日記の補足として、有名なデマについて指摘しておく。


高木健一弁護士に告訴されたと報告する池田信夫氏のブログエントリで、下記のYOUTUBE映像を紹介していた。「朝まで生テレビ」の録画らしい。

Wikipediaでも似たような記述がされている。
高木健一 - Wikipedia

1993年4月に、高木や村山晃(現京都第一法律事務所所属[5])弁護士ら日弁連調査団がインドネシアを訪問し[6]、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦に対して名乗り出て欲しい」という内容の広告を出し[7]、また日弁連調査団はインドネシア法律扶助協会(LBH)などと共同で元慰安婦の証言を集めはじめた[8]。

名乗り出れば200万円の補償を得ることができると宣伝されたともいわれる[7]。兵補中央協議会会長のタスリップ・ラハルジョは「東京の高木弁護士の指示を受けて始めた。『早く進めろ』と催促も受けた」と述べている[9][10]。

7.^ a b c d 中嶋慎三郎「日本人が捏造したインドネシア慰安婦 」『祖国と青年』1996年12月号、日本協議会・日本青年協議会

もちろん藤岡信勝氏が主張していることや、中嶋慎三郎氏の主張にもとづいた記述は、日本政府の認識とも異なっている。
文脈が誤っているため、高木弁護士がかかわった活動についても誰が主体か理解できなくなっている。


実際の活動についてだが、アジア女性基金サイトにある倉沢愛子氏の論文「インドネシアにおける慰安婦調査報告」で説明されている。
http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p089_105.pdf
当時のジャカルタにいた倉沢氏の記憶によると、インドネシアのマスメディアで従軍慰安婦問題がにぎわったのは、1992年からのこと。全国紙「コンパス」が日本の新聞記事を紹介するかたちで、日本軍の関与を示す証拠が発見されたと報じた*1

この問題が大きくインドネシアのマスコミを賑わせるようになったのは1992年7月以降のことだった。1992年7月6日付けの全国紙「コンパス」が、「読売新聞」の記事を紹介し「日本軍が第2次大戦中、アジア諸国の女性を慰安婦として募集するにあたって、軍が関与していたという事実を証明する文書127点が発見された」と伝えた。次いで、7月7日の各紙に、「日本政府が6日、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア出身の元慰安婦に対する謝罪の意を表明した」と報道された。

紹介された記事が読売新聞というところも、現在からすると皮肉だ。従軍慰安婦問題を朝日新聞だけが広めたかのように非難しているが、読売新聞も昔は自国の戦争犯罪に向きあうことができていたのだ。


そして日弁連だが、1993年に戦後補償セミナーのため調査におとずれただけという。それがインドネシア現地で補償の動きと誤解され、元慰安婦が名乗り出た*2

調査はあくまで、その年の10月に東京で開催予定であった戦後補償に関するセミナーのための事実関係調査を目的としたものであり、弁護士個人の資格で行われたものであった。しかしインドネシアのマスコミの中には、日本政府がいよいよ慰安婦の補償問題に乗り出してきたというニュアンスで報じるものや、あるいは日本の弁護士がインドネシアの元慰安婦の訴訟を援護するために来たという書き方をするものもあった。

しかし日弁連の活動が調査にすぎないとわかると、現地団体に不信感が生まれた*3

法律援護協会の本部は、日弁連の5人の弁護士の訪問中、彼らと直接話して、その調査目的が必ずしも訴訟の準備のためでなく、主として同年10月に行われる戦後補償のセミナーのための情報収集であったことを知り、警戒心を強めた。

つまり日弁連が煮えたぎった釜の蓋を開けたのは事実だが、それは意図したところではなかったし、存在しなかった火種を持ちこんだわけでもない。
むしろ、直接的な補償活動ではなかったことによって、現地から否定的に見られたわけだ。
このことについて、論文ははっきり「誤解」と表現している*4

日本側でも現在一部にはそのような認識があり、慰安婦問題はインドネシア側から出てきたのでなく、日本側から「火をつけた」という誤解が強く残っている。

もし、対立する双方から批判される存在は信頼できるならば、日弁連は信頼すべき組織となる。もちろん、現実には中立性は信頼できる根拠にはならず、あくまで間違いを少なくするための方法論にすぎない。


論文には高木弁護士の名前も出てくる。日本軍インドネシア兵の支援団体であった兵補協会に対して「慰安婦の実態調査をしてみたらどうですか」*5と持ちかけたという。そこで兵補協会は元慰安婦をはじめとした性的被害者の登録事業を1995年に始めた。
現地の報道がもりあがって3年後、日弁連の調査をきっかけに多くの元慰安婦が名乗り出て2年後。兵補協会自体も、日本へ軍事預金の払い戻しを求める団体として、1990年から存在していた。従軍慰安婦に限っても、法律援護協会による登録事業が1993年からおこなわれていた。やはり高木弁護士が火のないところに煙をたてたわけではない。
ちなみに法律援護協会による登録は「自己申告のみに基づくものであり、法律援護協会の側では特に認定作業や事実関係の調査を行なってはいない」とある。一方、兵補協会は名前や住所はもちろん、「日本時代の呼び名、1942-45年までの居住地の他、覚えている日本人の名を2名、日本人知人の名を1名記入させている」のだという。さらに兵補協会は一部を選んで、より詳細な調査をおこなったそうだ*6

兵補協会では、その中から一部の人々を抜き出し、日本軍政時代の体験に関する25項目の質問を記載した調査票を使ってより詳細な調査を行っている。これらの質問に対しては、aからdの4つの選択肢が用意されており、その中から選ぶという形式になっている。この調査は、バンドゥン支部のヘリ支部長が中心になって行われたため、データは西ジャワ地区のものがもっとも整っている。

あくまで高木弁護士は被害者の支援において、厳密な調査や登録の方法を助言した立場だ。補償を求めていなかった現地を焚きつけたわけではけしてない。
むしろ不完全な調査で補償を求められるよりは、高木弁護士の助言は日本政府にとっても助けとなったろう。日本政府が歴史に対して誠実であろうとしていたならば、だが。


高木弁護士が池田氏を告訴した理由などは、今のところ明らかになっていない。
しかし訴訟がどのように進行するにせよ、こうしたデマを否定する助けになるならば、応援したいと感じているところだ。

*1:90頁。以降もふくめて、頁番号は同じ論文のPDFに記載されたノンブルを示す。テキストはこちらのWIKIから。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/531.html

*2:92頁。

*3:92頁。

*4:93頁。

*5:93頁。

*6:93頁。