進々堂というカフェを舞台に、名も無き「ぼく」と御手洗潔が互いの体験談を語り合う。一人称視点に他者の語りが混入する、入れ子細工のような小説形式で、内容もとりとめないものばかりだが、世界の片隅で朽ちていきかけた人々を拾い上げ、その輝きを頁に刻み込む。
御手洗潔が京大生であったころ、世界各地を放浪した直後の連作短編集。
さびれた日本の港町に一つだけ都会を感じさせる喫茶店があったという『進々堂ブレンド 1974』は、同じような田舎に同じような喫茶店が一つだけあった子供時代をすごした者として、強い共感をおぼえた。だが、その記憶を呼びさます小道具が喉スプレーなのは笑いを意図しているのかどうか。
無理解な社会に風穴を開けようとする障碍者と父の姿が印象深い『シェフィールドの奇跡』は、途中で予想していた『ああ無常』と同じような結末に結びつく。良い話だが、クライマックスで細かな数字を説明する台詞は少しわざとらしい。
戦前に朝鮮半島から日本へわたりながら虐げられ、戦後はアメリカへ渡った男の数奇な運命を描く『戻り橋と悲願花』は、彼岸花をモチーフにした物語として完成度が高い。どの時代、どの立場からもはじきだされる親日派朝鮮人の葛藤が読ませる。日本で従事していた兵器産業が結末で強い意味をもった光景として浮かび上がる構成もいい。だが、本格ミステリのつもりで様々な可能性を想定しながら読んでいたため、明かされる少し前に落としどころがわかってしまった。
虐げられたウイグルの地で、さらに周囲から排除されている老人をめぐる『追憶のカシュガル』は、いかにも島田作品らしく届かぬ恋を苦く甘く反芻する。国際政治の舞台となっていた大戦前夜のカシュガルで、踊り子と日本人をめぐって、若き日の迷走が老人の口から語られる。その矮小な心の動きが、御手洗の評価によってカシュガルの背負った歴史と相似形を描き、あたかも老人の彷徨がキリストの受難のように感じられていく。痛々しいはずの真相も、清冽な印象をもって胸に落ちる。こちらではソメイヨシノが題材として選ばれ、人工的に増やされた狂い咲きの、偽りと紙一重の美しさが物語を象徴していた*1。
いやはやしかし、どれも美しい物語ではあるのだが、全て明らかに本格ミステリではない。名探偵が登場するシリーズ作品として読んだため、不要に深読みしてしまい、いくつかはオチに見当がついてしまった。
マイノリティの姿をすくう視点と語りは好みであるため楽しめたのだが、この著者らしい豪腕さも欲しかったところだ。