法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

ドキュメンタリーに夢見すぎ

映画『ザ・コーヴ』をめぐっては、ドキュメンタリーという表現方法への無理解が表出する光景をよく見かけた。太地町を題材とした『ETV特集』について感想を書いた下記エントリでも、同様の事態が起きている。
『ETV特集』鯨の町に生きる - 法華狼の日記

drkuroneko 2011/08/20 06:23

「「ドキュメンタリー映画として」の問題はない」

意図的に事実を歪曲するのがドキュメンタリー映画なら問題ありませんが、事実を歪曲しているものをドキュメンタリーとは呼びませんよ。

ドキュメンタリー映画として」の問題はないという私の主張は、エントリ本文にリンクしている下記エントリで行っている。冒頭で言明しているように、主として「ジャンル自体への無理解」へ反論する内容だった。
おそらく『ザ・コーヴ』にドキュメンタリー映画としての問題はない - 法華狼の日記

しかし、実際の制作者や映画とは明らかに異なる虚像を批判しても、反論として成り立たないだろう。ドキュメンタリーというジャンル自体への無理解による批判にいたっては、『ザ・コーヴ』一作品にとどまらない問題ではないだろうか。

末尾の結論部分でも、ドキュメンタリーが作家の主観で作られているという一般論を紹介した。

いずれにせよ、ドキュメンタリーとは、作家の主観によって事実の断片を切り取ったものにすぎない。描かれている内容が事実でも、それゆえに観客は全てを受け入れるべきではない。他の様々な情報と同じように、単純に真実か虚偽の二元論で理解できるものではなく、咀嚼する力が常に試されるのだ。

drkuroneko氏の「ドキュメンタリー」に対する認識も、個人にとどまらない普遍的な誤解があると思われる。この機会にまとめておきたい。


もともとdrkuroneko氏は、私が主張していないことを勝手に読み取ることが多い。以前にもエントリに一つの問題点をまとめたこともある。鯨肉から基準値を超える水銀が検出されたという情報に対して発症していないと断言しながら、立証責任を転嫁しようとするそぶりを見せたからだ。
自分が何を主張したいのか整理してから反論をしよう - 法華狼の日記
今回も返答内容から「ドキュメンタリー映画として」と限定した文脈が理解できていないことは予想できたが、とりあえず追及せず説明してみることにした。

hokke-ookami 2011/08/21 08:07

いいえ、「ドキュメンタリーは嘘をつく」ものです。あくまで事実を素材にした映像作家の作品です。一方的で偏向した視点にこりかたまったドキュメンタリーは、それはそれで偏向した眼差しについて知ることができる、良い作品になりうるのです。

ちなみに私は、コメント欄にdrkuroneko氏が登場する以前の(2011/07/26 23:41)で、「ちなみに映像作家の森達也監督は、『ドキュメンタリーは嘘をつく』という書籍も出しています」とコメントしている。

drkuroneko 2011/08/21 17:37

>いいえ、「ドキュメンタリーは嘘をつく」もの

これはびっくり。http://ja.wikipedia.org/wiki/ドキュメンタリーとも符合しないしdocumentという英単語には「嘘をつく」という意味はありません。

ここでdrkuroneko氏が信用に値しない論者であることは明らかだ。私は(2011/08/11 23:30)で「せめてこのエントリとコメント欄、そしてエントリ内でリンクしている別のエントリまで目を通してから主張を組み立ててください」と注意したのだが、先に書名を紹介したコメントには気づかなかったらしい。
いや、たとえコメント欄の全てに目配りできなくても、自身の提示した根拠に目をとおしてさえいれば「ドキュメンタリーは嘘をつく」が書名を引いたものと気づけたはずだった。

hokke-ookami 2011/08/22 01:41

おやおや、ご自身が提示したWikipediaの記述も読めていないのですか?

>一般的にドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写、劇映画 (Drama film) ・ドラマは創作・フィクションであると認識されているが、本質的に差はないと実務者(森達也など)に指摘されている[1]。
>社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、森達也は、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがあると述べている[1]。
>1.^ a b 森達也ドキュメンタリーは嘘をつく草思社、2005年3月22日、85-95・160頁。ISBN 4794213891

きちんとカギカッコにくくったのですが、そのワードを調べないまでならまだしも、符合しないと自分で主張するページを読むこともできないとは……

しかしdrkuroneko氏は下記コメントのように「一個人の意見」と矮小化しようとこころみた。たとえ信頼できない一個人の意見であっても一説として採用されている限り、「符合しない」という主張が誤っていることに変わりはないのだが。

drkuroneko 2011/08/24 19:39

森達也は、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがあると述べている」

主語と述語は「森達也は〜述べている」ですよね。「森達也」という人は世界を定義するのが職業の神様ではなくて、映画監督とか大学の客員教員とかをやっている普通の人な訳です。すなわち一個人の考えがwikiで引用されているだけ。一方で定義を読んでみて下さい。

「文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。」

わかりますか?「演出を加えること無く」とありますよね。あなたの好きなザコーブは演出どころか嘘を並べた映像ですから、ドキュメンタリーとは呼べない訳です。分かりますか?

Wikipediaから私が引用した文章では森監督は「普通の人」ではなく「実務者」と紹介されている。私が引用してdrkuroneko氏が引用していない文章では「森達也など」と書かれ、一人の意見でないこともわかるはずなのだが。

hokke-ookami 2011/08/25 01:52

わざわざ主張が引用されているドキュメンタリー作家を「普通の人」と評するのでは、あまりdrkuronekoさんの読解力に期待が持てませんね。否定的でなく引用されているということは、一説としてとりあげる価値があるとWikipedia編集者が判断したということでしょう。
次に、自身の主張を読み返してください。

>意図的に事実を歪曲するのがドキュメンタリー映画なら問題ありませんが、事実を歪曲しているものをドキュメンタリーとは呼びませんよ。
>これはびっくり。http://ja.wikipedia.org/wiki/ドキュメンタリーとも符合しないしdocumentという英単語には「嘘をつく」という意味はありません。

drkuronekoさんはWikipediaの定義とそぐわないと狭い意味の主張を行ったわけではなく、「呼びません」「符合しない」と主張していました。
まずは「ドキュメンタリーは嘘をつく」という文字列が自身の持ち出したページでも言及されていること、その文字列からわかる実務者の一説として私の説明と「符合」する記述があること。それら誤りを認識して訂正してから、「定義」が絶対的に正しいという主張へ変更しなければなりません。その場合、Wikipediaには森監督説の引用ではない説明でも、下記のような記述がされていることを踏まえなければなりません。

>フィクションとノンフィクションの境界は曖昧なものとなり、全体としてはドキュメンタリーは以前ほど「真実」と近しいものとしては受け入れられなくなりつつある。

ちなみに一般論として、匿名の編集者が編纂するWikipediaよりは一般的な百科事典を参照するべきです。

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC/
>ドキュメントは記録や文献という意味であり、ドキュメンタリーは、事実の記録に基づいた表現物をさす。
>しかし、普通、ドキュメンタリーという場合は、単なる記録性だけを問題にするのではなく、社会批判、社会告発などの要素が含まれていると考えるべきだろう。
>ドキュメンタリー・ノベル、ドキュメンタリー・ドラマといった、本来のドキュメンタリー(記録・文献)とは結び付きにくい造語がつくられてゆくのも、日本においてドキュメンタリーということばが、その表現方法や手法について語られるものであるからだろう。
>単に外側に現れた現象の記録ということだけではなく、現代のドキュメンタリーは、事件の内側の真実や、人間の心の内側の現象までをも「記録」しようという企図をもち始めているようだ。

つまり「ドキュメンタリー」という呼称は現代日本において、事件の記録にとどまらない表現に対しても用いられていることが、より信頼できる事典でも説明されているわけです。

以降のdrkuroneko氏は、(2011/08/25 18:19)で「wikiというのは誰でも書き込める」と自身が提示した根拠の薄弱さをもって私への反論をこころみるという転倒をしたり、私は森監督の主張ということを引用で示しているのに(2011/08/26 23:20)で「記述の主語述語を取り除き」と主張したり、(2011/08/28 03:58)にいたっても「一個人の意見」と矮小化を続けたりと、様々な詭弁の見本市を展開するばかり。
取り下げて主張しなおすことを何度も私は示唆したつもりだったが、批判を拒絶することが自己目的化しているらしき相手には通じなかったようだ。

hokke-ookami 2011/08/26 07:26

>たとえば英語の方のページには森達也もそれに類似する主張も出てませんよ。

英語版を提示されても、drkuronekoさんが自説の根拠として日本語版を提示した事実は覆せません。くわえて私は英語版に該当する記述があるとは主張していませんし、日本語としての「ドキュメンタリ」を語っているので、英語版に類似する主張が出ていないという主張をされても私には何の痛痒もありません(念のため、英語版での該当する記述の有無とは別問題です)。
英語版を自説の根拠として提示したいなら、最低でも「これはびっくり。http://ja.wikipedia.org/wiki/ドキュメンタリーとも符合しない」という(2011/08/21 17:37)での主張を取り下げてからです。

ここでもdrkuroneko氏は、相手と自分がそれぞれ何を主張してきて何を証立てなければならないか理解できていなかった。ちなみに英語版Wikipediaでも、旧来のドキュメンタリ観から外れた境界線上にある現代的ドキュメンタリへの言及がある*1


そもそも私が「ドキュメンタリー映画として」の問題はないというエントリを書いたのは、映画『ザ・コーヴ』がアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を獲得したためだ。ドキュメンタリーは事実性だけで評価される表現ではなく、娯楽性などからも評価を左右される。受賞は必ずしも情報の確実さや主張の妥当性を担保しない。
映画評論家の町山智浩氏も、作品の面白さを評価して『ザ・コーヴ』が受賞するだろうことを予想していた。同時に、重要な映画は別にあると指摘しながら*2

つまり、なぜドキュメンタリーとして高評価されたか説明するため、現代的なドキュメンタリーのありかたを私が説明したという順序がある。たとえ私個人の意見を変えようと努力しても、アカデミー賞を『ザ・コーヴ』が獲得できた事実は覆せないし、獲得できた文脈が理解できなくなるだけだ。
自分が旧来の狭義で「ドキュメンタリー」という言葉を用いたくても、現代的な広義で「ドキュメンタリー」をとらえることを止められはしない。


少なくとも私は『ザ・コーヴ』を批判してはならないとは主張していない。ドキュメンタリーとしてすぐれていることと、『ザ・コーヴ』で主張されていることの事実性は、あくまで別個に評価される。
この文脈が理解できているなら、『ザ・コーヴ』の主張妥当性を争いたい時、ドキュメンタリーとしての優劣を争う意味は薄い。主張の妥当性を全く評価していなくてもドキュメンタリーとして高評価することすらありうる。相手がどのような意味で評価しているかを確認して、素直に主張の妥当性のみで争えば充分なのだ。それができないのは、ドキュメンタリーは事実をありのまま映すものという幻想にとらわれすぎているからだろう。

*1:http://en.wikipedia.org/wiki/Documentary_filmの「Some films such as The Thin Blue Line by Errol Morris incorporated stylized re-enactments, and Michael Moore's Roger & Me placed far more interpretive control with the director. The commercial success of these documentaries may derive from this narrative shift in the documentary form, leading some critics to question whether such films can truly be called documentaries; critics sometimes refer to these works as "mondo films" or "docu-ganda."[17] However, directorial manipulation of documentary subjects has been noted since the work of Flaherty, and may be endemic to the form due to problematic ontological foundations.」という記述。

*2:http://twitter.com/#!/TomoMachi/status/10153906741