法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『A』/『A2』

1998年と2002年に公開された森達也監督のドキュメンタリー映画。事件後のオウム真理教に密着撮影し、教団*1の内側から社会の狂騒を見つめなおす。
森達也オフィシャルウェブサイト -森達也 映像作品紹介-
ただし、あくまで加熱した教団報道の補完的な作品であり、限られた一面を切りとる映画である。単独で見ても事件や教団の全貌を知ることはできない。
どのような事件を起こしたか、どのような団体であるかという情報すら映画は断片的に言及するだけ。冤罪被害者もくわしい説明はない。


『A』は教団広報部の荒木浩副部長を中心に、生活感ある信者の姿を切りとっていく。「A」はオウムの頭文字であり、副部長のイニシャルであり、匿名を意味する英文字である。
もともとTV番組として企画され、初期に自主制作に移行したというだけあって、アナログTVと同じ画質で4:3のスタンダードサイズ*2。ほとんどの撮影を担当した森監督のカメラワークが上手といえないこともあり、映像表現として巧みな作品ではない。しかし膨大な撮影素材から編集された場面は、どれも興味深いものではあり、見ていて飽きることはなかった。
マスコミ同士が縄張り争いする姿に始まり、オウム真理教をどのように解釈するべきか混迷する社会が映されていく。激しい言葉で排斥する住民だけでなく、なれなれしく信仰をやめさせようとする隣人も出てくる。
印象的なのは、自分が元気だと荒木副部長が家族へ伝えるようにと、被害者代表が助言する場面だ。攻撃的ではない口調で、同じ目線の高さで語りかける。教団と社会の狂乱を喜劇的に映した映画において、被害者だけが自制された言葉と態度で教団を社会に包摂しようとする。


そのような断片が映されるなかで、やはり最大の衝撃は有名な逮捕シーンだ。
聴取が任意と確認して、立ち去ろうとする信者。それを追いすがる警察が信者を押し倒す。そして警察が足の痛みをおおげさに主張して、信者を公務執行妨害の現行犯としてあつかう。「転び公妨」と呼ばれる警察の自作自演手法だが、これは自ら転ぶにとどまらず、相手を転ばせている。信者は道に倒れて昏倒したまま救急車で運ばれるほどだ。それでも信者は拘留されてしまった。
しかもそのような暴力的な捜査が、カメラがある一般道でおこなわれる。隠し撮りではないことを不思議に思ったら、森監督によると当時は異常なことではなかったという。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100415/221588/

── カメラに撮られても問題ないと思っていたのでしょうか?

森 「A」公開数日後の映画館で、映画を見終わった男性グループが「あれくらいのシーンなら俺たちも撮ったことあるぞ」って言いながら出てきたことがある。呼び止めて話を聴いたら、TBSの報道スタッフでした。TBSだけじゃないです。日本テレビもフジテレビもNHKも、あるいは読売も朝日も毎日も、要するにほとんどのマスメディアは、あんな場面を毎日のように目撃していた。撮っていた。

── 撮っているのに放送もしないと。

森 おそらく警察も、撮られたところで放送はしないから大丈夫だろうって思ったんでしょう。当時の新聞を見ればわかるけど、カッターナイフを持っていたオウム信者逮捕とか。駐車場に立ち入ったから逮捕とか。ごく普通に記事になっていました。だれもそれをおかしいとは言わなかった。

カメラに見つめられながら恥ずかしげもなくふるわれる暴力と考えれば、インドネシア虐殺再現ドキュメンタリーとも重なりあう。
『アクト・オブ・キリング《オリジナル全長版》』 - 法華狼の日記

こうした枠組みで役割りを演じる被写体は、カメラを意識しているはずである。つまり虐殺者は、そこでの自身の発言が建前として成立していると考えている。そのことが、単純に虐殺の事実を隠したり、表層だけ懺悔したりするより、ずっと大きな価値観の断絶を浮き彫りにする。

ここで教団から協力を求められ、この映画で初めて森監督は素顔をのぞかせる。ドキュメンタリーが被写体に影響を与える是非で迷いながら、人権110番に相談する。
最終的にテープが警察に提示されて信者は解放された。しかし興味深いことに、この最大の山場は中盤に配置され、教団の立場から告発する論調にもなっていない。逮捕の直前シーンが、のんきな挿入歌を流している無声の日常風景*3であることも、不思議な味わいを作りだしている。


『A2』は社会の異物として排斥されようとしていた教団が、隣人と不思議な友好関係を結んでいくまでの過程や、さまざまな教団への批判を切りとっていく。
カメラは前作より俯瞰的に教団をめぐる状況を映していく。教団の映像に珍しいものは少ないが、ドキュメンタリーとしての完成度が上がっている。撮影も編集もこなれてきているし、広範に取材した映像は無駄を感じさせない。当初は追いだそうと小屋から監視していた住民が、やがてブロック塀ごしに信者と仲良く会話していく構成がわかりやすい。
社会の無謬性を否定するように、オウム真理教を追いだそうとする右翼団体のデモも登場する。暴力的な言葉で街路をねり歩き、住民からけげんな視線を向けられる。そんな右翼団体は警察にはばまれ、自己の正義を叫びながら威圧する。かといって右翼団体も映画は批判的に映さない。カメラは右翼団体の内部にも入りこみ、その主張を映像に乗せていく。記録としてなかなか貴重だし、ある意味でオウム真理教右翼団体を等分に描いている。


そして最も印象深かったのは、教団関係者が河野義行宅へ謝罪のため訪れた場面だ。
河野氏は、松本サリン事件における毒ガス攻撃の被害者であり、警察から犯人視されて過熱報道の犠牲になった冤罪被害者でもある。転び公防に代表される警察の誤った捜査が、教団以外に向かった時の象徴といえるだろう。
他の報道もいならぶ部屋へと、河野氏は教団関係者をとおした。そこで教団がどのような謝罪をしたいのか、それにどのような意味があるのか、ていねいに質問していく。いっさい攻撃的な言葉を使っていないのに、きちんと応じられない信者は口ごもっていく。
和室であぐらをかき、貧乏ゆすりのように体を前後させる河野氏は、あくまで実体をもったひとりの市民である。しかし表情を崩さず、懐柔も威圧もせず、ただ明確な回答を求めつづけるだけで、信者の考えの甘さを浮きあがらせる。こゆるぎもしない河野氏の態度は、前作に登場した聖者のごとき被害者代表ともまた違う、精神的な巨人のように感じられた*4
日常生活を送る信者を撮影して、嫌悪しつづけることの難しさを描いてきた映画は、ここで教団の幼稚さが改善されていないことをあばく。ひたすら教団を異物として排斥してきた社会だが、かといって教団になれあって受容に転じるだけでいいのか、そのような問いかけをふくむ一幕だった。


なお、両作品と教団の関係性だが、撮影協力していることからも教団は歓迎していたらしく、推進委員会を作ったりもしていたという。
たとえば被害者のひとりである滝本太郎弁護士インタビューのなかばに、映画『A』『A2』批判の一環として言及される。
滝本弁護士へインタビュー: Grip Blog <Archives>

彼は映画『A』推進委員会というのは、オウムとは関係ないと聞いてるということで逃げてるんだけど、あれはオウムが作った推進委員であって、映画『A』はオウムの理解を強めるために意義のあった映画だからね。オウムの宣伝になったわけですよ。

このインタビューは他にも、ドキュメンタリーが被写体の社会的立場を固定化しかねない問題や、被害者のひとりとして社会の包摂の重要性をうったえて破防法適用に反対する主張などが書かれており、読みごたえがある。
ドキュメンタリーが被写体に影響をおよぼす問題といえば森監督も、『A2』制作直前に再会した荒木副部長の精神が荒廃していたと語っている*5。少なくとも建前を装えなくなっていて、ヘッドギアと呼ばれる装置を頭につけた姿を初めて森監督の前に見せたそうだ。続編が俯瞰的な作品へと変わったのは、それが理由だという。


しかし、どれほど被写体に問題があっても、いやだからこそ友好的にふるまって初めて貴重な取材ができることはある。『A』の終盤で教組の写真を祭壇に飾るかどうかを悩みつづける場面など、コントのようで親近感をおぼえさせるかもしれないが、教団にとって不都合な真実でもあるだろう。
そもそも教団への排斥や受容は、予告で明かされている導入にすぎない。映画は信者の日常を延々と映しながら、終盤になって森監督は事件についてどう思っているのか質問をぶつける。その口調はそっけなく、親身ではないが糾弾ともいえない。そして教団が事件に向きあえていないことを明かしてみせる。
映画全体を観れば森監督が教団に肩入れしているという印象はない。もちろん加害者と被害者の中間に立つことは公平ではないが、同種のドキュメンタリーに比べて被写体そのものへの興味が異常に薄い。あくまで映画の中心は被写体に反射した社会の姿にある。

*1:後継団体のアレフなどもふくまれる。

*2:画面がTVサイズなのは『A2』も同じ。

*3:声が入っていないのは撮影ミスで、それでも安岡卓治製作が参加した初日だから映画に入れたそうで、無音であることは意図的ではないという。それでも、長時間にわたる撮影であえて選んだことに監督の作為があることは間違いない。

*4:むろん、どちらにせよ被害者がそのように強くある必要はないはずだし、強さが被害者に求められているならば加害者と社会の問題といえるだろう。

*5:『A2』のDVDライナーノーツ等で語られている。