法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

どうして「昔は良かった」という作品に山崎貴監督は作り変えてしまうのか〜『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』から『BALLAD 名もなき恋のうた』へ〜

戦国時代へタイムスリップした川上一家が井尻又兵衛という侍大将と出会い、彼と廉姫の秘めた恋を知って茶化しながら応援する。しかし身分違いのかなわぬ恋であり、さらには姫との政略結婚を望む大倉井高虎という大名が攻めてくる。
日曜洋画劇場で放映された『BALLAD 名もなき恋のうた*1を視聴。邦画として最高級のVFXで、粗なく見せ場を作っている。本編の演出もまずまずで、美術セットもリアリティが高い*2。原案での様々な隠喩表現が、写真や文字としてわかりやすくなっていることも、全否定はしない。
しかし原案のアニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』*3に比べると、とても評価できる内容ではない。


『アッパレ』を原案とする『BALLAD』で変化した部分は大きくわけて2つある。実写でありながら人間関係がアニメよりわかりやすくデフォルメされていることと、時代にとらわれた大人を未来の子供が救う物語ではなくなっていること。そしてそれらは密接に結びついている。
『BALLAD』では敵大名も姫に対して個人的な執着を持ち、侍大将でしかない井尻を直接的に敵視する。大倉井は春日城に乗り込んできて、わざわざ川上少年とも因縁を作る。井尻も姫も周囲の人間にすら恋心を隠すゆえの悲恋だった『アッパレ』に対し、『BALLAD』では大倉井と井尻が最終的に堂々と一騎打ちをしてまで因縁を強調していた。井尻と姫の別れも、遠く離れて言葉もかわせなかった『アッパレ』と違い、すぐ側まで走り寄って会話する。あたかも、戦国時代では身分や立場を超えた恋愛が、現代以上に可能であったかのように描かれている。
つまり時代性ゆえに恋心を隠さなければならない悲しみが、逆に美しい悲劇として魅力的な恋愛へと変わった。大倉井は、時代性を象徴する障害から、ただの恋敵になってしまった。形勢が悪くなれば逃げ出そうとするような狡猾さが消えたため、どれだけ上手な殺陣を披露しても強敵とは感じられない。それと同時に川上少年は、過去に介入しようと努力した野原家長男と異なり、恋愛を第三者的に観察する要素が強まった。川上少年は日常的にいじめられ、戦国時代へ来たのは「逃げ」と示唆する描写もある*4。中盤の手紙を埋める場面でも『アッパレ』と違って途中で別れるので、井尻と姫の関係を強く結ぶ役目をはたしてない。はっきりいって川上少年は『BALLAD』に存在しなくても、ほとんど問題がない。最終決戦でも自動車に乗ったまま応援するだけで終わり、大倉井が自転車技術へ興味を持った因縁すら回収されないのだ。てっきり自転車を使って大倉井の陣で活躍するとばかり予想していた。


現代の価値観に基づく理想主義が、美しく装った過去の苦しみを批判する『アッパレ』。美しい過去と比較して、現在の苦しみと戦えるようになる『BALLAD』。大筋を変えず細かな再現も行いながら、テーマは正反対だ。
ファミリーアニメのシリーズ作品という制約があったため、野原家長男の成長は主軸になれないという側面はあっただろう。アニメと比べて実写では演技のできる子役をそろえることが困難ということもわかる*5
しかし終盤まで過去を美しく描く方向へ変化させながら、井尻が迎える結末は『アッパレ』と同じなので、結局のところどっちつかずだ。どの経験によって川上少年が成長したかがわかりにくい。これならば悲劇を否定して井尻は生き残るか、せめて戦闘中に負った深手で倒れたという展開にしなければ、過去を美しく描く一貫性すらない。


映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』*6に代表されるように、原恵一監督は郷愁の美しさと欲望を鮮烈に描く。しかし同時に、郷愁が幻想でしかないことも自覚している。郷愁とは、単なる過去の美化というよりも、より良い未来を選択しなおしたい欲望なのだ。だから『オトナ帝国』で郷愁の象徴として描かれたのは、希望に満ちた未来像を提示した大阪万博であったし、過去に夢見た「未来」はもっと美しかったと敵が語る場面もある。
ゆえに『アッパレ』で美しいのも現代に通じる個々人の思いやりだけであり、時代性を象徴する大倉井は卑劣でなければならなかったし、思いやりが味方をふくめた周囲から抑圧される姿も描かれなければならなかった。戦国時代らしい所作や着物の動きにくさがしっかり描かれていたのも、単に映像へリアリティを出すためだけではない。
対する山崎貴監督は過去を葛藤なく美しく描く。VFX技術者として、異世界を魅力的に描こうとする意識があるためかもしれない。過去には形式的に『三丁目の夕日』を原作としつつ『オトナ帝国』の影響下にあると疑われる『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズで、再現された過去は希望ばかり描かれた。公害も人権問題もベトナム戦争も明確には存在しない、単調なセピア色の世界。進歩に取り残される問題すら、氷式冷蔵庫が用いられなくなっていく一場面が描かれた程度。登場人物の意識も、現代人との差異がうかがえない*7。それらの短所が解消されないまま現代と過去の人々が出会う『BALLAD』を手がけた結果、欠点として作品に露呈してしまった。


誤った選択をした事実は変えられないからこそ、『アッパレ』の主人公は努力しても過去を変えることができなかったし、その顛末は緻密な残酷さをもって描かれた。これは残酷さと現実性を混同することとは違う。主人公の持つ価値観の理想は、過去の人々が持っていた希望を間違いなく肯定していたからだ。
進歩が常に正しいとは思わないが、悲劇を少しでも減らすことが間違っているとも思わない。しっかり過ちと描けてこそ批判することが出来る。原恵一監督は『アッパレ』において過去の悲劇を美しく描きながら、同時に未来を肯定してみせたのだ。

*1:以降、『BALLAD』と表記する。

*2:井尻のように地位が低めな侍の住居は、鉋を手作業で粗くかけたように、いびつな形の柱になっている。

*3:以降、『アッパレ』と表記する。

*4:本題ではないが、いじめられることから逃げてはいけないというメッセージは、危険なものだと思う。

*5:そのため、中盤で昔の子供たちに出会う場面は削除され、かわりに井尻の側につかえる若者が登場している。

*6:以降、『オトナ帝国』と表記する。

*7:現代を主な舞台として外部からの脅威を描いた『ジュブナイル』や『リターナー』では、社会批判意識の欠落もふくめて、監督の資質が娯楽として良い方向へはたらいていたと思うが。