法華狼の日記

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たった一つの本質的な違い

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bat99 南京事件で「どっちもどっち」と言っている人は、過去の蓄積がなければあっさりと否定論に取り込まれているような気がする。2009/10/02

おそらくそうだろうと思う。実際、懐疑論者や中立論者が必ずしも論争の蓄積を理解しているわけではなく、細部では下手な否定論よりも明らかなトンデモに引っかかっている事例も少なくない。


ただ、少し補足したい。
現状で歴史修正主義疑似科学を熱心に批判する人も、積み重ねのない状態で歴史修正主義疑似科学を批判できるとは限らない。


それどころか、歴史修正主義疑似科学を批判する人は、偽史や超科学に少なからず魅力を感じているからこそ、議論に関わっているようにも思う。
たとえば有名な奇術師ハリー=フーディーニは、もともと超能力に期待して裏切られた失望から、偽超能力の正体を暴くことに力を注いだという。と学会でも珍しい原理主義的な疑似科学批判者*1である山本弘会長は、20歳ころまで超常現象の類いを熱心に信奉していたと著書で明かしている。
私も偽史の類いは大好物で、さすがに記述が史実とは思わなかったが、史実の一部が内容に反映されている可能性はあると思ったし、偽史が古来から伝承していることは事実だと思った時期もある。
それから時をへて、インターネットで南京事件論争に関わった初期のこと。否定論が人種差別等と抱き合わせになっていたことには嫌悪感を抱かせたが、それだけで妥当性を判断することは難しかった。論者の人格と論の妥当性は別物と留意したかったからだ。その考えは今でもあまり変わらない*2。また、誰も知らない説、主流でない説の面白さというものも強く感じている。
論争に関わった初期から素朴な否定論につくことがなかったのは、たまさか本多勝一『南京への道』や笠原十九司南京事件』等を先に読んでいたおかげだ。肯定論者の急先鋒とされるような人でさえ虐殺被害者30万人説を単純に採用していないことを知っていたわけだ。肯定論者の説を批判しなければならないのに、誰も主張していない30万人説を持ち出して批判する論法に驚き、その論法を批判しない論者による別の巧みな否定論も眉に唾をつけるようになったし、争点を理解しないことで成り立つ懐疑論や中立論も否定論と同等の嘘だと理解できた。批判が少ないからと安易な嘘を流布していた否定論の自滅で、結果的に助けられたといっていい。


また、以上の経験によって、インターネットの集合知に特別な意味を見いだす意見を、個人的に信用できないでいる。もちろんいくらか集合知はあると思うが、他のメディアを優越するほどとは現在でも思えない。
たとえば、南京大虐殺の死者数が増え続けているという主張が、かつてインターネットでまことしやかに流布されていた*3。しかし蒋介石政権時の中国が43万人説を主張し、共産党政権における30万人説より多かったことは、『南京への道』注記でも書かれていたことだ*4。多くの人が読み続けているロングセラー、それも当の論争で言及されることが多い著者の書籍に書かれている、知られていて当然の情報なのだ。
この『南京への道』はルポタージュなので過去論争を追うには不充分だが、注記等で複数の否定論が批判されている。それを読むと、否定論の多くは全くといっていいほど進歩してなく、20年ほど前の書籍で充分に反論できる程度がほとんどとわかる。
インターネットに論争の場が移った途端、歴史学や報道の場で行われた長い論争による「集合知」が、失われてしまっていたのだ。現在のインターネットにおける「集合知」のかなりが、すでに一般書籍で広く流通している情報を繋ぎ直したものだ*5
そしてインターネット内でも、論争の場が変われば、また同じ否定論が蒸し返される。たとえば2ちゃんねる等の匿名掲示板が勃興する前、すでにYAHOO!掲示板で南京大虐殺論争が激しく行われていた。現在では、逆にYAHOO!ニュースのコメント欄で、もはや2ちゃんねるでも通用しそうにない古い歴史修正主義が流布されている様子*6。この分断は、サイト個々の問題だけでないことはもちろん、インターネット固有の問題でもなく、歴史修正主義の本質的な性質が生み出す状況でもあると思う。


先述したように、否定論者も肯定論者も同じ人間であり、思考力に本質的な差違があるとは思えない。なぜ否定論が安易な嘘を流布していたかというと、それこそ過去に積み上げた議論を無視していたからだ。
……いや、正確には順序が逆で、議論を積み上げず過去を無視することが、否定論を生み出すのだろう。
否定論と肯定論それぞれを生んだ手続きに、そもそも本質的な差違がある。前者は指摘された誤謬を修正せずに蒸し返す偽史が作った論であり、後者は根拠と議論を積み重ね続けている歴史が育てた論だ。
歴史を誠実に論じていった結果として肯定論へ収束していったのであって、逆ではない。対立する仮説を戦わせて、徐々に一方へ収束していくという学問上の真っ当な手続きがあっただけ、それだけのはずだった。否定論や懐疑論が流布されているのは、学問とは別個に主張を続けたくなる動機があるからにすぎない。
だから南京事件論争において否定論と肯定論という区分けには語弊があり、本来は歴史学と偽歴史学のような区分けが正しい。
たとえインターネット上の論争において否定論者が形ばかり過去を参照していても、そもそも否定論自体が過去を参照しないことで成り立っているのだから、いずれ自滅したことだろう。


もちろん上記の話は、歴史修正主義にとどまらず、血液型性格判断創造論等々の疑似科学全般に通じる。
何にしても、疑似科学が議論の蓄積によって中立や懐疑へ後退すること自体は歓迎すべきで、疑似科学批判者が目指した状態とはいえる。
問題は、自身の見解が過去の蓄積によって作られたことを知らないことだ。全て知ることは無理だが、蓄積が存在することの認識はほしい。この認識は、歴史修正主義に陥っている者はもちろんだが、歴史修正主義を批判する者こそ必要だ。蓄積を認識することこそが科学であり、歴史なのだから。

*1:そもそも「と学会」は疑似科学や超常現象に限らないトンデモ全般を楽しむ同好会であって、自他ともに超常現象肯定論者と認める人も参加している。もともと批判を専門とした組織ではない。

*2:ただ妥当性の有無とは別に、信用性は失われることはある。

*3:もちろん現在でも流布されているだろうし、商業書籍でも流布しているものがあるだろう。しかし、かつてのインターネットにおいて、死者数増大説は主流派を形成している感があった。

*4:朝日文庫版378頁。

*5:いうまでもないが、繋ぐことは重要で、かつ労力のいる作業であり、充分な敬意を払うべきだ。もちろん、インターネットで独自性高い情報を発信している人も少なくない。

*6:熱心に追っているわけではないので、比率などを実際に比べたわけではない。あくまで感覚的な話。