別に、私は、南京事件はあったと思いますし、虐殺も良いことだとは思ってませんよ。ただ、個人の有限なリソースにつけるプライオリティとしては、そんなに高くなりません。70年前の死人より、今の生者を私は重視します。もちろん、その価値観は私の勝手な価値観です。
南京事件には生存者が今も生きていて、東中野修道氏のような人間に現在進行形で名誉を毀損されていることは、少し調べればわかるはずだ。
実感というものは主観に左右されるから、重大性や真実性は必ずしも反映されない。だから、実感できない自分自身を認識することはあっていい。
しかし、実感が主観に左右されるからといって、それが批判されないというわけでもない。誤った情報を根底として生まれた実感とわかった場合、その誤りは批判されて当然だ。
また、自分が持っている情報や読み解いていく視点に問題がないか、実感を持てないことを前提にするより先に、自ら問うべきだろう。
フィクションでなくても、南京事件を題材として、『KANON』のように個人の心象によりそった文章は少なくない。被害者の証言、加害者の証言、どちらも探せばネットで断片が見つかるし、図書館に行けば厚みをもった書籍として質量的な実感すらえられるだろう。それらの資料が南京事件において注目されにくいのは、大規模な虐殺事件であることが南京事件の固有性とされ、個々人の悲惨な体験は細部として無視されてしまうからだと思う*1。『ラーベの日記』も完訳版の登場が待たれる*2。
戦後のルポタージュも多数出版されている。本多勝一『南京への道』などは入手が容易だろう。
もちろん南京事件に題をとったフィクションも複数ある。新しい作品ならば若年層も目を通しやすいだろう。
だが、たとえば映画『南京1937』は度重なる上映妨害にあい、マンガ『国が燃える』は脅迫によって単行本修正および連載打ち切りを余儀なくされた。実感を持てないと主張する者は、実感を持たせるような情報が暴力的に排除された現実を無視してはならない。
しかし幸い、いくつかの小説は無事に出版されて今も流通している。読んだものの中から、いくつか紹介させてもらおう。特段に実感を必要としない人には先入観なく読んでほしいので、続きを読む形式を用いる。
山田正紀『ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件』は、偽りとしての南京事件、公式記録から抹消される歴史が描かれる。個人ではあらがいようのない大きな流れに、推理小説という虚構で切り結ぶ。そして南京事件を否定しようとする邪悪な意思を、全肯定しながら反転する。示される美しい救いは虚構ならではのものゆえに、現実の醜い面を浮き上がらせる。
山本弘『神は沈黙せず』では、南京事件そのものではなく、南京事件否定論の愚かしさが描かれる。作中における様々な疑似科学は、心弱き人々を救うふりをしながら傷つけていく。そして心弱き人々を周りの人々と対立させ、全ての人々を傷つける。どうやらこの小説で南京事件否定論が描写された意味を理解できない人が多いらしいが、要するに歴史修正主義もまた一つの疑似科学なのだ。
島田荘司/小島正樹『天に還る舟』は、南京事件に関わるという情報で驚きを減じてしまうかもしれない。犯人像や犯行方法は特定されないので、本格推理小説としての楽しみが全て失われるわけではないが。不必要なほど手間をかけた空想的な犯行形態であることが、逆に犯人の怒りと悲しみの大きさを表す。
船戸与一『満州国演義5 灰塵の暦』は今年に出版されたばかりの作品で、もうしわけないが未読。そのため出来は確約できないが、紹介文から南京事件を題にしていることは確実だ。感想を探していると自虐史観によるものかどうか悩むものがあったので、事件の矮小化はされていないと思っていいだろう。なお驚くべきことに、よりによって新潮社から出版されている。