法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ぼっち・ざ・ろっく』のTVアニメ化で性的な描写を抑制したことが、関係者の合意でおこなわれたとなぜ考えられないのだろうか?

 媒体を変更すれば原作から何らかの変化が必然的であるし、そこで変更する意見を出して反映されたことは全ての変更を決めたことを意味しない。
 そのような一般論を、先日から話題の中心になっている作品『ぼっち・ざ・ろっく』の具体的な描写やインタビューを根拠に、簡単に下記エントリでまとめた。
一般論として、『セクシー田中さん』のようにメディアを変えるなら物語も変える必要があるし、『ぼっち・ざ・ろっく』もふくめて脚本家に映像に意見する権利はあっても物語を決定できる権限はない - 法華狼の日記

一般的に考えられ批判の理由にされているよりも脚本家は他のスタッフの意見をまとめる側面は大きいが、それは脚本家が映像面のアイデアを出さないということにはならない*7。今回は吉田氏が水着を着るように改変したと説明した話題がひろまっているのに、否定する関係者は今のところひとりもいない。

レポート記事でも吉田氏は脚本家として映像に意見しつつ、いったん脚本で決めたことが省かれて映像化されることを否定しておらず、完成した映像における一貫性の全責任を負える立場ではない。

 しかし脚本家の意見が映像に反映されるかどうかは場合によるというだけの上記エントリに対して、はてなブックマークid:ho4416氏やid:Outfielder氏らがよくわからない反発をして、注目コメントに入っていた。
[B! メディア] 一般論として、『セクシー田中さん』のようにメディアを変えるなら物語も変える必要があるし、『ぼっち・ざ・ろっく』もふくめて脚本家に映像に意見する権利はあっても物語を決定できる権限はない - 法華狼の日記

ho4416 メディアで物語を変えるのも脚本家に権限がないのも当たり前だが、いちスタッフの立場でさも自分のイデオロギーにより改変を主導したかのごとく振る舞い作品に余計な色をつけたのは問題

Outfielder 一般論として、「成功した面は自分の手柄、非難される面は他人の責任」は矛盾しているのでそんな理屈は難しいのだが、ひとつのテクニックとして「話を長くして前半と後半の矛盾を目立たなくする」というのはある

 上記のふたりやそれにはてなスターをつけた人々は、脚本家が完成形における物語の全要素を決定するか、脚本会議でいっさい意見を言えないか、どちらかの場合しかないとでも思っているのだろうか?
 特定の場面に意見して改変したと証言した時、他の場面すべての責任を負わなければ矛盾したことになるというのだろうか?


 さまざまなアニメ関係の情報を読めば、意見がとおることもあればとおらないこともあるし、意見がとおって脚本が完成したうえでコンテや監督の指示で描写が変わっていくのが一般的なところだろう*1
 吉川惣司氏のように脚本家が原作者や監督をかねる場合ならば、脚本家が完成形における物語の全要素を決定したり、他のスタッフの意見をくみつつも全責任を負うことはあるが、少数派だろうし、吉田氏の立場とは異なる。
 トークイベントのレポート記事でも、脚本段階のト書きが最終的に削られてもかまわないと語られているくらいで、吉田氏ひとりが物語の全要素を書いているとは読みとれない。
『ぼざろ』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性” - KAI-YOU

「同じシーンを書くとして、『○○と言い、震えながら水を置く』とか『○○と言いながら水を置くが、雑に置くので水が揺れている』のようになります。忠実に守ってもらうためというよりは、私がどうキャラクターやシーンをイメージしているかを伝えるためなので、省かれてしまっても構いません」

 水着への改編も、あくまで意見がとおった事例について語っていると解釈して矛盾を感じる表現はない。
 エントリで引用した別のインタビュー記事でも、原作者がシナリオの打ち合わせに毎回同席したと明言され、作品の描写が改変もふくめて相談されていることがわかるが、もちろんそのインタビューでも吉田氏が描写を変更した部分が語られている。
ジャンプラ読切沼のわたしたち | 吉田恵里香(脚本家・小説家)

ぼっちちゃんは、バンドをやっている理由を尋ねられて、熱い思いを語ります。そのあと、「全員で人気バンドになって、売れて学校中退したい……」と本音を喋る。この言葉に対して、原作の虹夏ちゃんは「そんな重いのはバンドに託さないで……」とツッコむんです。しかし私の脚本では「なんか重いなぁ(笑)。でも託された!」に変更しました。


 むしろ、吉田氏がひとりで勝手に物語の要素を決めているとレポート記事から解釈する人々がいて、反発するのはなぜだろうか?
 ひとつの可能性として、クリエイターは性的な描写を追及することが通常で、吉田氏の意見は原作者や監督に合意されるはずがない、という誤った考えをもっているのかもしれない。
 そのように誤った考えを前提にしたならば、吉田氏の特異な意見が完成作品に反映されたのは物語の決定権をもっていたからだ、という誤った結論にたどりつくことは理解できる。
 ちょうど吉田氏のトークイベントのレポート記事が話題になった少し後、「隙あらばパンチラや胸揺れを差し込むアニメーター」を批判するツイートに対して、すべての性的描写がアニメーターの「情熱」をこめた「必然性」のあるカットということを前提とした反発が賛同を集めていた*2


今、怒りに震えています。
映画評論家による「隙あらばパンチラや胸揺れを差し込むアニメーター」という表現に、強い悪意を感じ、同時に絶望を覚えました。


私自身、わずかな期間ではありますがアニメ制作の現場で働いた経験があります。
そこで知ったのは、アニメーターたちがいかに情熱と誇りをもって作品づくりに臨んでいるかということです。彼らの熱量はすべて、良い作品を完成させる、その一点に注がれています。


少し前のポストで、アニメ『着せ恋』のファンサービス的なカットが議論になった際、多くの方々が
「これは単なるファンサービスではなく、感情を伝えるための重要なシーンだ」
と指摘されていました。


まさにその通りです。


コスプレという題材を扱い、被写体が女性であれば、表現が性的に見えるのは必然です。
その必然性があるからこそ、キャラクターの繊細な感情やアニメならではの美しさが表現できるのです。


しかし、受け手によっては、あの評論家のように「隙あらばパンチラや胸揺れを差し込む邪悪なアニメーター」と、悪意を込めて恣意的に解釈することも可能でしょう。
そしてもし仮に、そうした解釈のもとに表現が削られてしまっていたら『着せ恋』という作品は成り立っていたでしょうか。


いま、アニメや漫画は「性的搾取」という言葉によって激しい攻撃にさらされています。ですが、それは本当に正しい評価でしょうか。


Amazon Primeでは、より露骨なエログロ描写を含む『ザ・ボーイズ』が高い人気を誇り、Netflixの最新ドラマシリーズではゲイのセックスシーンが自然に描かれることもあります。
私はそれらの表現を否定するつもりはありません。しかし、なぜアニメーションだけが、殊更に攻撃の対象とされるのでしょうか。


アニメや漫画は、日本人が子どもの頃から親しんできた文化であり、行政からほとんど支援を受けることもない中で、作り手たちが研鑽を重ね、世界に誇る芸術へと育て上げてきた職人芸です。いまこそ、彼らに名誉と誇りを与えるべきではないでしょうか。
安い賃金で長時間働き、世界に通用する作品を作り続けてきたアニメーターたちに対し「性的搾取」という安易なレッテルを貼り、インプレッション稼ぎの道具にすることは、あまりに卑しい行為です。


私たちファンは、この不当な攻撃に立ち向かうときが来ています。
憎しみや分断ではなく、作品への敬意と創作者への尊重をもって。
大切な文化を、私たちの手で守っていましょう。

 しかし発端となった映画批評家の小野寺系氏のツイートを確認すると、アニメが性的な描写をさけるよう原作者から指示されたという情報を引きながら、あくまで作品の方向性に反するアニメーターを批判をする内容だった。


脚本家が性的な表象を抑制することよりも、そういう作品じゃないのに隙あらばパンチラや胸揺れの表現を差し込んでこようとするアニメーターの方が問題だし、場合によっては制作者たちや視聴者たちを巻き込んでのハラスメントにあたる行為なんじゃないかと思う。

 実際に性的な描写を削る判断をする逸話もアニメ制作にはよくある。それこそ越権行為のように末端スタッフが性的描写をねじこもうとして、上位のスタッフが止めたという実名の体験談も複数ある。
いちいち指示しないとアニメーターが手癖で女性の胸をゆらしてくるというディレクション体験談が、異論が殺到するほど信用できないものとも思えない - 法華狼の日記
 同じように『ぼっち・ざ・ろっく』も性的描写を売りにする作品ではないという関係者の共通認識がつくられており、そのなかで吉田氏が意見して合意のうえで描写が改変された、と想像することに何の無理もない。
 事実として下記ツイートによると、『ぼっち・ざ・ろっく』のキャラクターデザイナーであるけろりら*3氏も、インタビューで性的描写をさけてデザインしたと語っていたという。


署名活動してる人この記事はどう思うんだろう?
(抜粋)
深夜の美少女アニメ的な要素を削るといった意識もありました。女性的な部分を前面に見せたくないと考えていたので、肉感的な要素を削っていってシンプルに腕や脚、腰に強弱をつけないよう意識しました。
それによってノイズ”が減るといいますか

 ここで消費者としての私的な心情をいえば、性的描写にかぎらず越権行為をはたらくくらいの末端の情熱は好ましいと思ってしまうし、そこで作品の完成度が多少は落ちるくらいがTVアニメは楽しくなるとは考えている。
 最近でも、けろりら氏が参加したアニメ映画『トラペジウム』は、近年の作画が良好な劇場アニメとしては珍しくパート別の作画監督の絵柄が出ていたが*4、それもふくめて楽しんだものだ。
『トラペジウム』 - 法華狼の日記

 意外と作画アニメらしさがある。ライブ映像や背景動画に3DCGを部分的に使用しているが、モブは手描きで動かしている。転落時のけろりら*1作画らしい幼い絵柄が、主人公の幼稚さをきわだたせている感じがあって良かった。

 しかしいずれにしても、性的描写の抑制や原作描写の改変は特定個人の意向と権限によってのみおこなわれているとはかぎらない。
 レポート記事にも吉田氏が他のスタッフにさからって性的描写を抑制したという記述はいっさいない。素直に読めば、作品の方向性にしたがって描写を調整していったと解釈できる。性的描写を増やすことが常に正しいという固定観念にとらわれてはできない仕事だったことだろう。

*1:『竜とそばかすの姫』の物語は少なくとも『サマーウォーズ』よりは圧倒的に良かったので、細田守単独脚本を不安視する根拠にされることに違和感しかない - 法華狼の日記の末尾で過去の事例を簡単に紹介した。ただし現在では原作者や出資者をまじえた会議で脚本を決めていくので、決定稿から変更することは以前より難しくなっているという。

*2:なお、この「フモト@SFumoto」氏は吉田氏に対しては「思想を持ち込むために作品を改変したり、一スタッフが原作を無視し自分の主義や思想で語るような行為は控えていただきたい」と主張しており、性的描写を抑制するアニメ制作者は事実を歪曲してでも非難することがわかる。

*3:陸田青享 - 作画@wiki - atwiki(アットウィキ)

*4:2024年5月に「ノイズ」と評する感想も複数あった。