必ずしも光市母子殺害事件に限ったことではなく、凶悪事件の裁判報道を眺めていて奇妙な感覚をおぼえることがある。
被害者側*1が記者会見し、あるいは取材される。弁護側が取材され、あるいは記者会見する。ジャーナリストや作家や学者や弁護士や評論家がコメントする。司会者がまとめる。まれに、事件当時の現場を捜査官*2が歩いて感想を口にしたりする。さらにまれに、接見などして被告本人の発言がもれてくることもある。
しかし、刑事裁判で争っているのは誰なのだろうか。考えてみると、報道で登場する人々は大半が当事者ではないとわかる。そして不在な者の姿も見えてくる。
被告は、弁護士が代理として報道に出ていると解釈できる。
中立が求められる裁判所は、判決で出した内容が全てという論理だろう。検討内容によっては、プライバシー等に関わってくることもあるだろうし、必ずしも間違っているとはいえない。
そして弁護側と裁判で争っている被害者側は報道に出ているかというと、それは違う。常に被害者側が発言しているわけではないということではない。刑事裁判で弁護士と争っているのは検察官なのだ。法律を離れて文学的*3に解釈するとしても、弁護士が被告の代理として前面に出るなら、検察官が被害者の代理として前面に出てもおかしくはないことになる。
刑事裁判が、弱い被害者側と、強権な弁護士集団の構図で見られるのは、検察官の肉体が不在な報道のためではないか。もし刑事裁判において、関わった検察関係者*4が全員映像に登場すれば、それは弁護団22人*5の比ではない衝撃があるだろう。
肉体を持たない検察主張自体は、裁判で一定の公表がなされる。冤罪が疑われる事件では、検察庁の建物と文書回答が報道映像に乗ることもある。しかし実体を持った個人としての検察官が報道に登場する姿は見たことがない。
検察側は被害者や関係者を報道の矢面に立たせ、意図していないにせよ広告塔として利用している感すらある。
光市母子殺害事件で、差し戻し審は被告に死刑判決 - 昨日の風はどんなのだっけ?
そんな中で本村さんは、本当によく頑張ったと思います、誤解を恐れずに言えば田舎の高卒の一介のサラリーマンが、日本のトップクラスの法曹界の人間はもちろん、マスコミ人、知識人などとこの九年間渡り合ってきたのは、どれだけ大変な事であり、それらの壁を突破するというのが、どれだけ困難な事であり、決して「愚鈍な大衆を上手く煽って、感情的に流れるようにし向けた」なんて単純な事ではない。それは全く物事の本質を見つける事も、想像力も働かす事も出来ていない。
とにかく僕はこの裁判の結果について、本村さんに「おめでとう」と言うつもりはないし、それは思わないけども、そういう連中に対してだけは、良く戦ってきたなと思いますし、そのことは褒め称えてあげて良いと思う。
弁護士と戦う非法曹界のサラリーマンが立派だと思うなら、その影に隠れて戦いの場に出ることなく利益を得る法曹界の人間に思いいたってもいいはずだ。
ただし、検察官が常に記者会見を開くべきかというと、必ずしもそうとも思えない。裁判の場で争われる内容はプライバシー等に深く関わり、事件に対する心証にも影響を与える*6。……正直にいえば、報道の自由度ランキングにおける日本の順位を低くしている理由関連で、捜査側や検察側が報道を制御し、報道側も遠慮していると思っている。
この意味では弁護側が報道に情報公開することも必ずしも良いとはいえない。広報技術や、それに労力を割ける余裕が弁護士には少ないという問題もある。「疑わしきは罰せず」の原則が通じない報道において検察官と正面から戦えば、やはり弁護士は不利だろう。
では検察側も弁護側も情報をもらすことなく裁判でのみ主張を公開するという規制をするべきかというと、被害者や関係者が報道で様々な発言を行う以上、弁護士が被告のために反論するべき場合もあるかもしれない。もし虚偽が流布されるなら誰かが正さなければならないだろう。そうでなくても、弁護側の主張が裁判を通じてのみ届く一方で、被害者側の主張が自由に流れる状況では、弁護側の行動も必然になる。
そこで、被害者や関係者も報道の場で発言をするべきではないかというと、ある程度は開かれておくべきだと思う。前にも書いたが、被告のプライバシー等を侵害しない限り、被害者側が心理を癒す権利として許されるのではないか。できれば刑が確定するまで発言を待つといいのだが、我慢してもらうために裁判を拙速化して冤罪を生めば本末転倒だ。
有効な解決策など思いつかないし、報道等を見ても良い案は出されていないように思う。今は、報道を受け取る側が常に注意するという最低限の注意しかいえない。つまり、流される報道から在るものだけでなく不在も読み取るべき、我々が引き受けている問題なのだ。