法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「江戸しぐさ」と「小笠原流礼法」の影響関係

前者を偽史で成立したマナーとして批判し、実際に歴史ある後者を推す意見を見かける。ひとつひとつを名指しはしないが、「“江戸しぐさ”“小笠原流”」といった単語で検索してみると複数ある。


両者の歴史についてくわしくはないのだが、たまたま別件で調べていた時、両者を同時に肯定的にとりあげている論文『作法学の構想』を大学サイトで見かけた。
作法学の構想

日本の伝統的礼式(たとえば小笠原流)では,作法に対する用語を儒教的人倫を基準としているためか「礼法」と称している.しかし「礼法」の「礼」では「礼式・儀礼」など、対人場面での儀式的な所作の規範に限定されるニュアンスがある。ところが伝統的作法(書)でも実際には,風呂に入る時にどちらの足から入るべきか(たとえば「中島摂津守宗次記」)など、日常のさまざまな非対面場面での動作法も含まれる。

これからの作法の構成を考えるとき,伝統的作法体に根本的に欠けていた要素が鮮明になる.それは「公共に対する配慮」という機能素である.言い換えれば,伝統的作法体では,眼前の評価者に対する配慮だけが作法の根拠であった.アカの他人に対する所作は,たとえば近代以前の日本でも「江戸しぐさ」として江戸町民の間で洗練された都会人のマナーとして成立しつつあったが,テキスト化された作法体には至らなかった.

これは2000年の論文という。どうやらインターネットで小笠原流礼法に言及したものとしては、比較的に古いものらしい。
基本的には小笠原流礼法に準拠して作法の成立を考察し、異なる作法と相反すること等の目配りもきちんとあり、この論文だけならば疑問点は少ない。「江戸しぐさ」は引用部分で言及されているのみ。


しかし同じ著者が学生向きに書き、作法学や小笠原流礼法の入門として公開した「作法トピックス」*1の一項目では、よりふみこんで「江戸しぐさ」を肯定している。
作法 マナーとルール 礼と法*2

江戸時代初期、江戸庶民の間で小笠原流礼法が大流行した。小笠原流礼法は本来将軍・大名クラスの武家礼法なのだが、小笠原流礼法を聞きかじりした小笠原家の家臣が庶民のニーズに応えて、広めたのだ(これは武家礼法をかたくなに守る側にとっては苦々しい現象らしいが、庶民の所作が洗練されたので私はよかったと思っている)。庶民に対して善悪を自主的に判断できる能力を与えるのだから。
そういうわけで江戸の町ではその後「江戸しぐさ」といわれる公共のマナーが発達し、おそらく世界で最も洗練された市民となった(幕末に江戸に着た西洋人が庶民のマナーの良さに一様に驚いている)。

ここではっきりと、小笠原流礼法を江戸しぐさの源流として位置づけてしまっている。
しかも現代日本人への批判をつづけて、『作法学の構想』に比べて陳腐な内容になっている。

ところが、道徳の基準である武士階級がなくなり、さらに和魂洋才で生きようとした明治の精神も滅び、衣食を足らせることから再出発した戦後の日本人はすでに礼とは無縁の人種となっていた。「違法でなければ個人の自由=法に触れなければ何をやってもいい」という倫理の最低水準付近をうろつく発想には、「ベストな振舞いとは何か」という理想水準を問題にする礼の入る余地がない。法家よろしく法(罰則)でしばるしかない。それが現在の日本人。

この「作法トピックス」は他の項目も首をかしげる記述が目立つ。たとえば女性が下腹部で手を重ねて一礼するというしぐさを批判したりしている。
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問題のビジネスマナーでの女性用の立礼は、この「休め」姿勢のまま礼をしろというのだ。これは作法的には言語道断。礼に必要な敬意をこめない所作を意味してしまう。伝統的礼法からも、小学校の教育からみても間違っている。この「ビジネスマナー」、いったい誰が考え出したのか知らないが、とにかく本物の作法を知らない輩であることは間違いない。

同じ著者が『作法学の構想』で「生きたわれわれに必要なのは,古びた価値観を墨守することではなく,現在の社会に合意されている価値(たとえばセクシャル・ハラスメントやエネルギー浪費を防ぐ)を,どう作法素にスマートに反映させるかになる」と提言していたのは何だったのか、と首をかしげてしまう。


著者の山根一郎教授は、椙山女学園大学の人間関係学部にいるそうだ。サイトに記載されたプロフィールは下記のとおり。
無題

専門
心理学(社会心理学)、作法学(自分で作った)

資格

小笠原宗家礼法総師範気象予報士防災士、危機管理主任3級、AFT色彩能力検定2級、温泉ソムリエ

これを信じるなら教授本人も小笠原流礼法と関係が深いらしいが、はたしてどこまで信用していいものか。


念のため、小笠原流礼法が江戸しぐさと同じく偽史かというと、ある程度まで歴史ある作法体系であることは事実らしい。
たとえば1894年に出版されたという『小笠原諸礼大全 : 男女躾方図画手引』が近代デジタルライブラリーで公開されている。
小笠原諸礼大全 : 男女躾方図画手引. 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション
もちろん『作法学の構想』にもあるように、歴史があるからといって現代にそのまま適用できるか、他の作法より優先されるべき作法といえるのか、といったことは別問題だが。

*1:http://web.sugiyama-u.ac.jp/~yamane/sahou/top-Fset.html

*2:太字強調は原文ママ。他ページからの引用も同様。

『デジモンセイバーズ THE MOVIE 究極パワー!バーストモード発動!!』

シリーズ5作目にあたる『デジモンセイバーズ』の劇場版として、2006年に公開された。
デジモンセイバーズ THE MOVIE 究極パワー!バーストモード発動!!
TV版のシリーズディレクターは伊藤尚往*1で、キャラクターデザインは青井小夜*2。シリーズで最も頭身の高いデザインで、怪物を使役する系統のアニメとしては珍しく、主人公は拳で怪物と語りあう。それにより、ポケモン系作品は主人公が他人を戦わせて虐げているという問題を、面白すぎる絵面で回避してみせたわけだ。
対する劇場版は、短編ながら映画初監督の長峯達也と、山室直儀キャラクターデザインという組みあわせ。脚本のみTV版シリーズ構成の山口亮太。視点人物を映画オリジナルのヒロインにしたのは、監督がTV版に参加せず距離があったためか、それとも『映画ふたりはプリキュアSplashStar チクタク危機一髪!』と同時上映のため女児観客を想定したのか。

もちろん主人公を映画オリジナルにした意味がないわけではない。あくまで50分の『プリキュア』に対するオマケなので、『セイバーズ』は20分の尺しかない*3。そこでメインキャラクターの多くが敵によって封印されたという導入で、ゲストヒロインを視点人物にすることで時間内に収めたわけだ。導入時点から世界が敵に支配されかけていて、敵に追われたゲストヒロインがパートナーデジモンに助けられ、目的地に向かうという展開も無駄なくわかりやすい。
「進化」によってデジモンのサイズが変わることも活用し、屋内の格闘戦から市街地の追跡劇、怪獣映画のような巨大バトルまで、多彩なアクションで楽しませてくれた。ヒロインに隠された真相も世界観にそったものだし、TV版の主人公にも見せ場は用意されている。


映像面も悪くない。演出では細田守監督らが手がけたシリーズ劇場版の初期4作品におよばぬものの、後の技巧を思わせる部分が散見される。いかにも山内重保監督の薫陶を受けた演出家らしく、無言でたたずむような1カットが長く、アクションではクローズアップなカットをこきざみにつないでいく。支配された都市に黴がはびこっているかのような美術設定は、ちょうど放映中のシリーズディレクターSD作品『ハピネスチャージプリキュア!』そっくり。中華料理店で戦ったりと香港映画を意識し、EDクレジットでもアニメにはありえないNG集を新規作画していたりと楽しい。
作画の見どころも多い。これも山下高明中澤一登らが作画監督した初期4作品ほどではないが、ていねいな山室直儀の作画修正によって最低限のクオリティをたもっていた。原画も当時の東映で集められるアニメーターがそろっており、馬越嘉彦や冨田与四一といった有名人から、西田達三や林祐己といった若手まで、まんべんなく良い仕事をしているようだ。ベストな仕事は、クライマックスの進化シーン1段階目を手がけた西田達三の、ディテールを落とした滑らかで重量感ある作画か。


少し残念なのはボスキャラ。まず、ありきたりな人類批判を動機として語るのは、尺の短さから考えればしかたない。一応、作品設定と関連もしている。
それよりボスキャラをはなわが演じたため、設定ほどの風格を感じないのがつらい。TV版では別のデジモンを演じていたのだし、せめてゲストヒロインを追いかける下っ端デジモンを担当させるべきだったろう。

*1:言及していなかったが、今年夏のワンピースSPを監督していた。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20140913/1410655058

*2:10月から放映の『オレん家のフロ事情』の監督をしている。http://www.orefuro.jp/

*3:あまりに短すぎるためか、DVDにはTV版のOPED前後期がノンクレジットで収録され、24分という表記がされていた。