法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

スタジオジブリのブラック体制の責任を宮崎高畑両監督に求めるのはいいとして、相対的に鈴木敏夫氏が高評価されているのは不思議

単純な事実として、会社としてのスタジオジブリで代表をつとめたのは鈴木氏の側で、現場へのリソースのわりふりを決めるのも鈴木氏の側だ。


たとえば『かぐや姫の物語』をひとりで作画する意向は、高畑勲監督のみの意向ではない。
先日に紹介したように、まかされたアニメーター自身の妥協なきこだわりも存在していた。
やらせる高畑勲が狂人なら、うける田辺修も充分に…… - 法華狼の日記
それどころかパイロットフィルム制作*1の段階にいたると、複数のアニメーターで制作して、その経験を本編に活用しようとしていた。
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パイロットフィルムをパイロットフィルムとして終わらせず、その完成後に現場を解散することなく、そのままの体制で本編制作を継続しようと考えていた。田辺さん一人が原画を描くのではなく、数人のアニメーターを集めて作ろうと思い立ったのも、もちろん本番を意識したパイロット制作にしたいという思いもあったが、パイロット完成後も続けて本編制作を進めるという明確な考えがあったからだ。だから、松本憲生さんや安藤雅司さん他、数人の強力なアニメーターを誘っていたのだ。

プロデューサーをしていた西村義明氏はそのまま本編制作へ移行しようとして、高畑監督はパイロット制作で現場の問題を洗い出すため本編の制作まで間を置こうとしていたが、いずれにせよ本編を意識した多人数体制を構築しようとしていた。
もちろん本編に反映するためであっても、複数のアニメーターを拘束するためには人件費がかかる。会社からは難色を示された。
そこで西村氏が意向を鈴木氏に説明したところ、ひとりのアニメーターで原画のみならず完成までの作業の大半をやらせることを命じられた。
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アニメーターを継続雇用する正式な許可は降りなかった。つまり、本編制作を継続する許可を得られなかったことになる。それどころか、パイロットフィルムのためにアニメーターを雇う許可すら降りなかった。動画も仕上げも撮影も、田辺さんがやれ、ということになってしまった。そんなことをしていたら、絵コンテなんて、一切、進まなくなる。それどころか、高畑さんと約束した「本番を意識した体制で、問題を発見する」なんてできやしない。そうなると、いくら「社命」とはいえ、現場(高畑さん)の理解は得られないだろう。

この局面では、鈴木氏こそがひとりのアニメーターにすべて仕事をさせようとしていたわけだし、そもそも現場へのフォローを考えていなかったこともわかる。
この後、西村氏は状況から自身の内面までぶつけるように鈴木氏を説得して、なんとか予定していた体制でパイロットフィルム制作にとりかかることができたという。


実のところ鈴木氏の発言は、以前から作品と自身の宣伝という側面を多分にもつものであって、高畑監督の逸話についても神格化の意図を疑うべきところだろう。
「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1 | 文春オンライン
もちろん、高畑監督の鬼畜のごとき所業そのものは嫌悪されて当然とは思えるのだが、暴力や酷使という構図に回収するのも、それはそれで単純化だという懸念はある。
いっさい暴力を行使せず理屈だけで創作者の提出物を全否定してしまえるのが高畑監督であり、提出物を全否定できる修正ができてしまうのが宮崎監督であった。
比べると、しばしば説教の内容が矛盾する富野由悠季監督は、現場にとってやりすごしやすいのかもしれない、と北久保弘之氏の逸話から感じたりもする。正論と認めざるをえない説教をされることほどつらいことはない。
また、高畑監督が指示するだけで実作業をしていないかのような観念が流布されているのも、暴君視と裏腹な神格化の一種だろう。たとえば『かぐや姫の物語』の歌を高畑監督自身が初音ミクでつくったことは有名だが、これは逆に音楽担当者への失礼になりかねない行為だった。

*1:これ自体が「社命」により強要された仕事であり、遅々としながらも本編を制作していた高畑監督と西村PDは困ったのだが、本編作業に利用するという妥協でしぶしぶ引き受けたものだ。スタジオポノック 公式ブログ - <悲惨日誌 第89回> パイロットフィルムを作ろう。 - Powered by LINE