法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

脚本家の吉田恵里香氏への「簡潔でクリティカルな批判」なるものは、性的表現を選ばないこともあるクリエイターの選択を否定するというだけの内容

一般論として、『セクシー田中さん』のようにメディアを変えるなら物語も変える必要があるし、『ぼっち・ざ・ろっく』もふくめて脚本家に映像に意見する権利はあっても物語を決定できる権限はない - 法華狼の日記

 吉田恵里香氏のトークイベント記事への反応について、下記エントリでは別作品、特に『ドラえもん』にしぼって原作とアニメの異動例をならべた。
連載作品で方向性のかたまっていない初期の描写は、メディアミックスで削られるだけでなく、作者自身も単行本化で削ったりするよね - 法華狼の日記

 しかし元立憲民主党の都議だったこともある栗下善行氏のように、影響力のある立場から多大な問題のある発信がされていることを見かけて、いくつか批判的に記録しておく。

 上記エントリは冒頭で断っているようにあらゆる論点を網羅しているつもりはないし、原作の描写は原作者にとっても絶対ではないという根本的な一般論は最初にリンクしたエントリですませている。


 しかしエントリ本文で明記したことを読み落としたような反発がはてなブックマークで複数あった。
[B! メディア] 一般論として、『セクシー田中さん』のようにメディアを変えるなら物語も変える必要があるし、『ぼっち・ざ・ろっく』もふくめて脚本家に映像に意見する権利はあっても物語を決定できる権限はない - 法華狼の日記
 たとえば異なる論点への言及がないというid:keshimini氏の主張がはてなスターを集めて注目コメントに入っていた。

keshimini https://note.com/shukaron/n/nf96e974d1177 の簡潔でクリティカルな批判を見た後だと、的外れな批判をあげつらって反論したり、作品の出来不出来に話をすり替えたり、責任を分散しようとしたりされても、小手先だな~って感想。

 フェミニストになりすまして作品攻撃を呼びこもうとしたり、既存の署名運動への反発だけで名称変更を要求する署名運動をたちあげたり、裁判で名誉棄損が認定されて上司を会見で謝罪させたような人物をわざわざ批判するのは*1、それこそ的外れな批判対象を選んだことにされかねない気もするが。


 note記事を単独で評価しても、レポート記事の枠組みを理解できていないので、有効な批判にもなっていない。
「ぼっち・ざ・ろっく」脚本家・吉田恵里香氏が炎上している理由解説|朱夏論(しゅかろん)
 それでも複数人から反論を求められているようではあるので、「ノイズ」と「性的搾取」が異なることについては上記エントリで書いたので省略して*2、ふたつ簡単に応じておく。

「さあ搾取してください」ってなんだよ。

アニメの美少女を見てなにをしようが、搾取されるものなんかない。

 note記事でも引用されているように、吉田氏は「ファンの皆さんにはキャラクターをどう捉えてもらっても構いませんし、個人で何を描いても、何を想像しても自由だと思います」*3と明言した上で、それを送り出す側としての抵抗感を語っている。
 これはフィクションの存在であっても現実の存在のようにあつかうクリエイター個人の心構えだ。クリエイターが特異な心構えをもつことは自由だし*4、吉田氏の事例は特異というわけでもない。
https://nlab.itmedia.co.jp/cont/articles/3306116/

ハートキャッチプリキュア!」のシリーズディレクターである長峯達也氏は、海なのに水着姿にならないのは不自然なので同作で水着を出す予定だったとしながらも、やはり「自分の娘の肌をさらすことはできない」という理由でコンテの段階で水着をやめたことをTwitterで語っています。

 そもそもトークイベント全体が吉田氏がどのように脚本家として作品にかかわってきたかという説明であって、受け手が消費することと直接の関係はない。それでも、note記事でも引用されているように吉田氏は受け手の消費は自由であることを明言した。
 個々のクリエイターが創作の手法を公開した時、その手法を守るべきと他の作家や作家志望者に主張することすら珍しくないが、レポート記事に書かれた範囲の吉田氏は基本的に自作の範疇で語っている。
 クリエイターの姿勢を否定することが「表現規制」であると仮定するなら、現状で表現規制をおこなっているのは吉田氏ではなく吉田氏に反発している側だ。もちろんクリエイターの姿勢を個人が否定するだけならば、その否定が不当なものだったとしても、表現規制とは異なるが。


 そして下記のようにテンプレートの検討を全否定する部分は、何の反論にもなっていないし、クリエイトへの否定に他ならない。

アニメには長年の歴史から生まれた多くのテンプレート的な表現がある。それ自体の是非はともかく、作品や時代に合わせて適切か否かを模索する思考は、今後より重要になりそうだ。

長年の歴史の中で培われてきたテンプレートというのは、それを好むクリエイターや消費者がいるからこそ、テンプレートになるまで繰り返されているものだ。

それは文化の本質と言ってもいい。

ありもしない「性的搾取」のようなレッテルを貼って辱められてよいものではない。

けれど、そこには最低限の、先人たちが作り上げてきた文化に対する敬意が、最低限必要とされるべき職業倫理ではないだろうか。

 テンプレートという価値中立的な表現をつかうこと自体、たとえばステレオタイプといった表現をつかうよりも慎重とわからないのだろうか。テンプレート表現を強く否定するクリエイターも珍しくないが、引用されているようにレポート記事はテンプレートを全否定しているわけでもない。
 オリエンタリズム、マジカルニグロ、白人救世主……それらを好む人々によって「文化」として残ってきたテンプレートが批判されることは性的表現に限らない。創作表現だけでなく、差別とはたいてい長年の歴史のなかでつちかわれてきたものだ。
 個別具体的なテンプレートが差別ではないと反論したいなら、それこそ「適切か否かを模索する思考」が必要になる。
 新たな表現とは、しばしば過去のテンプレートを疑うことで生まれてきた。それでもクリエイターがテンプレート表現の良し悪しを考えることすら拒絶するのであれば、どこまで表現の自由を嫌悪しているのだろうか。

*1:反省して異なるハンドルネームをつかっているならば過去は無視して別人としてあつかっても良いのだが、本人が同一人物であることをにおわせているし、和解をふみにじるような被害者への接触をつづけている。 青識亜論が別名義でX(旧Twitter)に復活、新しい名前は「朱夏論」 - posfie

*2:そもそもnote記事でも『ぼっち・ざ・ろっく』についてアニメ化においてスタッフがさまざまな考えで描写が変更すること自体は拒絶していない。

*3:『ぼざろ』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性” - KAI-YOU

*4:もちろんそのこだわりを批判する自由もある。