法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

高畑勲監督と宮崎駿監督が入っていた東映労組について、「サヨク不信」が芽生えると語った田中雄二氏の謎

広告会社で映像プロデューサーをつとめている田中氏が、高畑監督の訃報*1にふれて、下記のようにツイートしていた。

会社側がアニメーターをしめだしたロックアウトを、「アニメを楽しみにしてる子供たちに毎週欠かさず納品してたのは彼ら。サヨク不信はこういう話でも芽生える」などと、なぜか労組の問題であるかのように主張している。
もしアニメーターがストライキをしただけならば、ストライキをせずに納品したアニメーターをたたえる理屈はわからなくもない。虫プロ手塚治虫がおこなって今も批判されているダンピングではあるが*2、個々のアニメーターがダンピングに追いこまれることは批判したくない。ただし、やはり争議によって作業が停滞した責任は企業が負うという原則には変わりない。


もちろん、この田中氏のツイートには複数の批判がよせられており、高畑監督や宮崎監督がTVアニメを落とさず全話に手を入れていた逸話も指摘されている。

ロックアウトの主体がとりちがえられているだけでなく、そもそも「当時」の時系列がずれているという指摘もある*3


TVがアニメの主な媒体となった1960年代に生まれた東映労組は、職場環境の改善はもちろんのこと、かつて東洋のディズニーを目指したころのような作品制作を会社に求めていた。以下、小山昌宏氏の文章を引用していく。
宮崎駿・

大川社長の怒りを買ったのは、以下のような「ビラ」の声明にあった。 

「ディズニーの長編動画は一本つくるのに四年も制作期間をかけているのに、東映動画では一年しかない」「公開日に間に合わすために、徹夜作業が続き、五六年以降百人が職場を離れ、恒常的に六人に一人の入院患者がでている」「賃金は月平均一万二千円、冬のオーバーを買うこともできない」

以後、労働条件は、幾たびの「闘争」によって改善されていく。

大作志向が会社側と一致して、高畑初監督作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』に結実したこともある。その制作において、会社の抑制した当初予算よりも拡大させることにも労組は成功した。残念ながら興行的には失敗したが、さまざまな試みがアニメ表現のレベルをひきあげることとなった。

会社が用意した資金は七千万円、だがこの金額では、新しい表現方法、緻密な画面構成もできず、従来の演出の範囲内でしか製作できないことは眼にみえていた。組合は、マスコミ共闘会議、日本映画復興会議の協力を得て、「アニメ表現」の新時代を標榜して譲らなかった。最終的に組合は会社から、一億円(一説では一億五千万円)の製作費を獲得した。観客動員のために、組合員は宣伝のために、日夜奔走した。

そして1971年までに高畑監督や宮崎監督らが退社した一方、赤字となっていた東映動画は新社長体制でリストラをおこなおうとした。あわせて作品本数もしぼられた。それが激しい団交からロックアウトにいたり、1972年までに多くの退職者を出す結果となった。

七二年、東映社長が岡田茂に交代。東映動画社長は、東映勤労部長、登石社長に交代した。いよいよ赤字集積部門の動画部門は、激しい合理化にさらされた。従業員三二〇人のうち、一五〇人が希望退職に応じた。ここからアニメは、手塚治虫が開いたTVリミテッドアニメのもとで、低賃金、重労働、海外下請けが定着し、劇場用アニメは、漫画原作付作品「宇宙戦艦ヤマト」など、集客がよめる人気作品に移った。

つまり、楽しみにしてる子供たちのためにアニメをつくりつづけようとしたのは労組であり、それを赤字として減らそうとしたのが会社という構図もあったのだ。


労働組合は労働者を助けるために、会社との闘争だけではなく、さまざまな仕事の手助けをおこなったりもする。
アニメ業界でも、合同出版から出した『アニメーションの本 動く絵を描く基礎知識と作画の実際』が、実践的な作画の教科書として知られている。

アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際

アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際

これは映産労においてアニメーターが作画を研究した活動の、成果のひとつであった。以下、五味洋子氏の文章を引く。
WEBアニメスタイル | アニメーション思い出がたり[五味洋子] その80 映産労の講演会

当時は映産労の活動が活発だった時期で、有原誠治さんたちを中心に意欲的な活動が重ねられていました。この「アニメを見る会」もその活動の一環として行われたものです。

 映産労の催しでは別の機会に開かれた大塚康生さんによる動画の講義も印象的なものでした。大塚さんがAプロにいた頃で、私は大塚さんにお会いするのもこの時が初めてでした。

 こうした大塚さんの教えが反映された本に、アニメ6人の会編著の「アニメーションの本—動く絵を描く基礎知識と作画の実際」(合同出版、1978年4月刊行)があります。

ちなみにスタジオジブリで活躍し、『耳をすませば』を監督した近藤喜文氏も、アニメ6人の会に参加したひとりである。


さて、田中氏がどうして最初に引用したような東映労組観をもったのか不思議だった。
そこで簡単に調べてみると、ほぼ元ネタと思われる文章を発見した。『アルプスの少女ハイジ』と同じ1974年に放映された『魔女っ子メグちゃん』の匿名掲示板スレッドだ。
【メグ】魔女っ子メグちゃん【ノン】3
東映虫プロが関係をもった歴史をめぐるやりとりで、東映労組へ責任を負わせようとする流れがある。特に「>>434」が、表現もふくめて田中氏のツイートに酷似している。

434 :名無しか・・・何もかも皆懐かしい:2008/09/02(火) 10:14:19 ID:???
うーん、よくわからんが。


高畑宮崎らが東映動画労組でストをやってた時でも
東映動画には体制側について毎週アニメ制作を続けていた連中がいた。
「プロレタリアを気取った坊ちゃん連中」と宮崎らを批判している、
タイガーマスクの木村圭市郎のような人もいる。
東映動画労組によって完全に制作機能がストップしたのが、「メグ」の時。
総務が制作進行をすることとなり、同僚のアニメーターから身を隠して
体制側として仕事を進めたのが高橋信也だったらしい。
今でも当時の事を思い出すとウンザリすると東映動画資料集に書いてある。
高橋は名前を伏せて「さすらいの太陽」のキャラデザインをやってたから、
虫プロの連中とはつながりがあったんじゃないかな。
メグの時、東映動画は3つの別会社に下請けを出すというをローテーションを初めて行う。
3社の絵のタッチがあまりにバラバラなので、その調整のために
このとき初めて、作画監督というポストが生まれたと書いてある本もある。
東映動画では、キャラデザインはどの角度からも書ける絵であること
アニメーターなら誰でも似せられる絵である訓練がなされるが、
アトムの角が角度によって違うように、漫画家出身者の多かった虫プロ
キャラデザインの訓練を受けている人が少なかった。
元は劇画出身の荒木伸吾も同じで、癖が強すぎるために模倣が難しかった。
3回の1回のローテーションで、あまりに絵が違い過ぎるという批判は「メグ」で既にあったらしい。
「バビル二世」などで東映動画に出入りしていた荒木が重用されたのは、
東映動画の作風が古いんで、まさに劇画時代の絵ということなんだろうけど。
「ルンルン」で荒木の弟子の姫野のキャラデザインが選ばれた理由はわからんが
(コンペでオモチャメーカーの判断が有力だったとか)
姫野の絵も他人が模倣しずらいので、2クール目に東映動画がブラッシュアップして
等身の低いキャラデザインに作り直された。


こうかな?

下請けと作監といった異動はあるが、ローテーションの数字が同じだ。この文章をあやふやな記憶でまとめると田中氏のような認識になってもおかしくない。

*1:高畑勲、死去 - 法華狼の日記

*2:ここでは、虫プロ側がTVアニメの仕事を安く請けたことを指す。アニメーターに対しては、むしろ東映より高給を出していた。手塚治虫のアニメ・ダンピング - 法華狼の日記

*3:厳密には、1960年代の労組立ち上げ時にもロックアウトがおこなわれたが、文脈からして田中氏が指しているのは1970年代のロックアウトのはずだ。ちなみに1960年代のロックアウトでは、月岡貞夫氏が内部への差し入れをおこなったという。東映・動画・手塚・労働・運動・りんたろう - 法華狼の日記