1989年、父と同じように海兵隊へ入った主人公は、過酷な訓練と不自由な日常をとおして、ひとりの狙撃手として完成していった。
そして1991年、主人公は湾岸戦争へ派遣された。しかし待ちうけていたのは敵ではなく、何もない砂漠での終わりが見えない日々だった。
サム=メンデス監督による2005年のアメリカ映画。湾岸戦争に参加した海兵隊員の手記にもとづき、大規模な戦場の空虚さを描きだしていく。
- 出版社/メーカー: ジェネオン・ユニバーサル
- 発売日: 2012/04/13
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特色は、戦争映画でありながら主人公が戦闘に直面しないこと。身近な死者といえば、訓練での事故死などの戦場とは遠くはなれたものばかり。基地でも戦場でも訓練や行軍がはてしなくつづく。敵の攻撃かと思えば、間抜けな事故、あるいは誤爆。最後の最後に目標とすべき敵があらわれるが、それも上層部の判断で失われてしまう。
もちろん作品としては単調ではなく、快感がまったくないわけでもない。兵士として完成していく日常、そこではぐくまれる仲間意識、金網一枚へだてた街と基地、地平線までつづく白く乾いた砂漠、重油がふりそそぐなかの行軍、攻撃跡と思われる無数の車両の残骸……そうした非日常がくわしく描かれ、充分に映画として成立している。
印象的だったのは、海兵隊員たちが基地で映画『地獄の黙示録』を鑑賞し、歓声をあげる場面。ワルキューレの騎行を流しながらヘリコプターで村落を空襲する映像に、海兵隊員は素直に興奮する。
オーディオコメンタリーの監督によると、この場面は実話だという。監督自身が「反戦映画」と表現するような作品に兵士がもりあがることに、とまどいをおぼえているような口調だった。
もちろん実話であることが、それだけで挿入する理由になるわけではない。そこには作者の意図が必ずこめられている。たとえば、戦闘を描けば意図がどうであれ観客を興奮させるということを、『ジャーヘッド』で戦闘場面を排した理由として逆説的に説明したのかもしれない。主人公たちが戦闘に興奮をおぼえる兵士として完成したという意味もあるだろう。
しかし、海兵隊員が湾岸戦争で虐殺をおこなうという伏線ではない。あくまで『地獄の黙示録』はスクリーンの向こう側の世界。そのような戦闘の興奮にこがれながら、最後まで主人公の手がとどかないことの象徴だ。
『地獄の黙示録』だけではない。この映画では、手のとどかないものを「窓」の向こうに配置している。
後の場面でも戦争映画を鑑賞しようとするが、VHSビデオを再生すると浮気している妻がうつしだされる。妻が夫への怒りをこめて撮影し、一方的に送りつけたのだ。愕然とする海兵隊員の声は、モニターの向こうで中指をたてる妻へとどくことはない。
主人公も、セクシーなポーズの写真をくれるような恋人がいたが、映画の中盤で別れを告げられる。そして主人公は洗面所で砂を吐く幻覚を見るのだが*1、その時に鏡の向こうに恋人を幻視する。写真や鏡という枠におさまった恋人もまた、手のとどかない存在になっていたわけだ。
そして行軍のはてに狙撃命令をくだされた主人公は、スコープに敵幹部の姿をとらえる。しかし直前に狙撃ではなく空爆で一網打尽にする作戦にきりかわり、主人公が敵を撃つことはなかった。手を出せない敵を友軍が空爆する風景が、窓に反射する。
訓練と戦場の日々を終えて、主人公たちには何も残らなかった。肉眼でとらえられる敵は最後まであらわれなかった。かたちのない何かが生まれたかもしれないが、海兵隊員がそれぞれ異なる生活をおくる映像には喪失感しかない。
主人公は、かつての戦友の遺体と日常で対面する。小さな窓の向こうの死者は、どのような人間であったのか、最後まではっきりしないままだった*2。
近代戦には個人の英雄など存在しないし、強制された団結は深い交流ではない。軍隊では仲間意識がはぐくまれるという幻想をも引き裂いて、この映画は閉じられた。
最後に主人公が見るのは、窓の外の幻。砂漠を行軍する陽炎のような海兵隊のちっぽけな姿。