法華狼の日記

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法哲学者の井上達夫氏はアジア女性基金に「フリーライド」しているようにしか読めない

その主張は、よりによって『SAPIO』に掲載されている。
戦争責任に識者 「国として誠意を見せた数少ない例が日本」│NEWSポストセブン*1

アジア女性基金」は日本の法的責任を認めるものではなく、道義的責任を果たすものだ。その意味で百点ではないかもしれないが、自国の戦争責任にここまで踏み込んで他国民に賠償し、謝罪した例はないはずだ。

この主張については、すでにscopedog氏が「敗戦した国が賠償した事例としては第一次大戦時のドイツとか日清戦争時の清国とかありますので、近代ではさほど珍しくはないでしょう」*2と指摘している。
それとも、いったん請求権を放棄させた問題で基金をつくったことが珍しいということだろうか。だとしても民間の寄付金という形式をとった基金を「賠償」と表現することは不正確だろう。

慰安婦を支援する韓国と日本の一部の団体(日本のそれはリベラル派である)は日本政府の法的責任と国家賠償に固執し、「アジア女性基金」を「政府の法的責任を隠蔽するための欺罔(あざむくこと)的手段」などと猛批判した。韓国では、「償い金」の受け取りを希望する元慰安婦に対し、脅しにも等しいバッシングが行われたほどだ。

事実認識として、「償い金」への拒否を表明した主体として元慰安婦を除外するべきではないし*3、受けとるか拒むかという判断の分断はフィリピンでも台湾でも生まれていた*4


それでも、ここまではアジア女性基金側の自認をなぞったものとして、説明不足や違和感はあるが理解はできる。問題は、「リベラル派」のアジア女性基金批判を「リベラル嫌い」の原因と結論していることだ。

保守派の一部は「アジア女性基金」を「土下座外交」だと批判した。そのように保守とリベラル、右と左が、ともに日本を道徳的な高みから引きずり下ろそうとしたのである。

 リベラル派の言説を一般の国民が「過度の自己否定」と捉えたのは当然で、それへの反発から「過度の自己肯定」や「リベラル嫌い」の空気が生まれた。リベラル派はそれを批判し、困惑するが、責任はリベラル派自身にあるのだ。

一読して疑問なのは、アジア女性基金を批判した「保守派の一部」は、なぜ嫌われないのだろう。どうして井上氏が主張をよせている『SAPIO』のような雑誌が問題なく継続しているのだろう。
そもそも、「日本の一部の団体」を「リベラル派」と表現して、保守派だけ「保守派の一部」と表現することがおかしい。アジア女性基金そのものが、「リベラル派」が始めた事業と考えられていたはずではないか。謝罪の手紙をおくった「タカ派を含む自民党歴代総理大臣」は、その事業を継続したものだ。なぜ「日本の一部の団体」のふるまいを「リベラル派」全体のように主張するのか。
現実に、インドネシアアジア女性基金に協力していた高木健一弁護士は、その活動にまつわるデマを流されつづけている。そのデマを国会で流したひとりが安倍晋三現首相だ。
高木健一氏が池田信夫氏を告訴したらしいので、安倍晋三氏が流したデマについて指摘しておく - 法華狼の日記
インドネシアの従軍慰安婦問題は日本の弁護士が焚きつけたというデマ - 法華狼の日記
たしかに保守派の一部もふくめて日本政府はアジア女性基金の達成を踏襲してきたが、そこで到達した認識からは引きずりおろそうとしつづけている。
「性奴隷」という表現を日本政府として拒絶したいなら、アジア女性基金を日本政府の成果として喧伝してはならない - 法華狼の日記
アジア女性基金に賛成しても反対してもリベラル派が嫌われ、反対した保守派が嫌われていないならば、リベラル派が嫌われた原因は「過度の自己否定」ではあるまい。
リベラル派の一部がはじめたアジア女性基金が「道徳的な高み」だったとして、それが“高すぎる”と保守派の一部が反対したのだとすれば、リベラル派の一部は“低すぎる”と反対していたと表現するべきだろう。井上氏の理屈で考えると、「道徳的な高み」に立とうとする動きそのものが「過度の自己否定」として嫌われると考えるべきであり、そうでないと現実と矛盾する。
それでも「保守派の一部」がアジア女性基金を肯定するのは、達成した成果を利用できて、さらなる高みに立とうとする必要がないためだ。だとすれば、そのふるまいこそ井上氏が嫌悪する「フリーライダー」そのものではないか。
それどころか、リベラル派をふくむ反対をふりはらってリベラル派の一部がはじめた事業を「日本自身が誇るべき」と主張し、「責任はリベラル派自身にある」としてリベラル派全体を嫌っていい理由のように主張し、自身を「本来のリベラリズムの立場」と位置づける井上氏自身こそ、無自覚な「フリーライダー」ではないのか*5


もちろん井上氏は法哲学者であって、あくまで近現代史や政治は隣接した分野だろう。だから、理論的な主張が具体的な現実と齟齬をきたすこともしかたないかもしれない。そもそも「一般の国民」の「空気」などというくくりは現実を見つめるにはあやふやすぎる。
上述の疑問点についても、不充分な事実認識にもとづいたため主張も不整合になっただけだと感じている。法哲学者と従軍慰安婦問題といえば、井上氏とも共著がある嶋津格氏が秦郁彦氏の認識を推していることで有名だ。先行研究を参照しようとして、現在の秦氏の認識*6を基盤にしたならば、従軍慰安婦問題で『SAPIO』に主張をよせるようなことをしても不思議ではない。


しかし純粋に理論だけを見ても、井上氏の主張には疑問をおぼえる。たとえば井上氏は護憲派を批判する時、「原理主義護憲派」が妥協したことを批判していたではないか。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1387
だから私は、妥協しているならば分類しなおすべきではないか、より原理主義的な派閥もあるのではないか、といったことを主張した。
徴兵制をしけば戦争に慎重になるという法哲学者の謎 - 法華狼の日記

違憲の固定化を望んでいるとして、それが「護憲」でないというなら、より正しい分類を提唱するべきではないか。勝手に「原理主義護憲派」と分類しておいて、原理主義でないからと批判しているならば、それはまるで魔女裁判のようだ。


そもそも護憲論者の全てが自衛隊日米安保を必要としているのだろうか。それらを不要と主張する、より原理的な護憲派がいないことを示さなければ、井上教授の主張はなりたたない。

アジア女性基金については、妥協しても「百点ではないかもしれないが」「その誠実さは世界から評価されていいし、日本自身が誇るべき」「道徳的な高み」と評価する。妥協を批判する原理主義的なリベラル派を「欺瞞」と評価する。
しかし護憲による不充分な平和については、妥協すると「おかしい」「欺瞞」と評価するだけで、「百点ではないかもしれないが」「その誠実さは世界から評価されていいし、日本自身が誇るべき」「道徳的な高み」と評価することはない。
私個人は妥協も原理もそれぞれ必要な局面があると思っている。だからこそ、妥協的であること原理的であること、そのことだけで批判するべきではないと思っている。それぞれを批判理由としてあつかう井上氏には違和感しかない。


井上氏は「リベラル派」の「欺瞞」を指摘するため、原理的にふるまう時は妥協的でないことを批判し、妥協的にふるまう時は原理的でないことを批判する。
それぞれの論点で細部をつめていけば、矛盾しない理論を構築することもできるかもしれない。しかしそれが示されるまで井上氏の主張を現実の指針とすることは難しい。せいぜい『SAPIO』のような雑誌で、その場かぎりのリベラル批判として消費されるだけだろう。

*1:引用時、「日本のそれはリベラル派である」にカッコをおぎなった。

*2:別にリベラルもリベラリズムも嫌いではないけど、井上達夫氏の主張は好きになれない - 誰かの妄想・はてなブログ版

*3:後述の原理主義護憲派に対して「彼らの視点に完全に欠け落ちているのは、たとえば自衛隊員の立場ですよ」と主張していた井上氏だが、補償によって分断された元慰安婦の存在が、井上氏の「主張」からは完全に欠け落ちている。視点から欠け落ちているのか、意図的に言及しなかったのかはわからないが。

*4:日本軍の問題から日韓の問題へ枠組みを変える無意味さ - 法華狼の日記の後半を参照。

*5:ララビアータ:井上達夫氏の新著と憲法論で「彼らの犠牲に畏怖と感謝をささげるが、彼らに報いることはできない。我々は先人たちの偉業にフリーライドする他はない」と千葉大学教授の田島正樹氏が指摘していたことが、まさに今回の井上氏にあてはまるように思う。

*6:アジア女性基金の元理事と連携して記者会見を開いた時も、歴史家の立場をかなぐり捨てるような主張をしていた。「歴史家」であることすら怪しい19人が米国教科書へ訂正要求をおこない、そこにアジア女性基金理事が連携している問題について - 法華狼の日記