法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

池田信夫氏の意味不明な主張を見て、植村隆氏への謝罪で見せた醜態を思いだした

池田信夫氏と藤岡信勝氏への高木健一氏による名誉棄損訴訟が和解したとの報 - 法華狼の日記で、謝罪文を出す予定というハフィントンポスト記事を池田氏が否認するツイートを紹介した。

しかししばらくしてブログエントリのひとつとして「お詫び」が掲載された。
池田信夫 blog : 高木健一氏へのお詫び

私が、2014年9月1日に当ブログに掲載した「慰安婦を食い物にする高木健一弁護士」と題する記事において、「慰安婦を食い物にする高木健一弁護士」、高木健一弁護士と受け取られるような書きぶりで「慰安婦を食い物にする『ハイエナ弁護士』」と記載したことは誤りでしたので、高木弁護士に多大なご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます。

これはハフィントンポスト記事で予定されていると報じられた文面とほとんど同じだ。
藤岡信勝氏・池田信夫氏が「誤り」認め謝罪文 慰安婦訴訟の弁護士批判記事 | ハフポスト

7月末までに以下の内容で謝罪文が載る予定だ。

2014年9月1日に当ブログに掲載した記事において「慰安婦を食い物にする高木健一弁護士」「ハイエナ弁護士」と記載したことは誤りでしたので、高木健一弁護士に多大なご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます。

しかし普通なら最上部に表示されるよう、和解で決められている未来の日付でエントリを掲載するか、ヘッダーやサイドバーに掲載するべき文章だろう。
しかも池田氏は今のところツイッターでもフェイスブック*1でも告知せず、ハフィントンポスト記事を書いた北野隆一氏や朝日新聞への非難をくりかえしている。
謝罪することを嫌がる心情はわからなくもないが、お詫びを掲載さざるをえない以上、このような小手先のごまかしがどこまで通用するだろうか。


ただ、池田氏がいったん削除して再掲したエントリに「植村隆記者は、こうした北朝鮮の日韓分断工作に利用されたにすぎない」*2と書かれているのを見て、以前に植村氏へ謝罪したことを思い出した。
池田信夫 blog : 植村隆氏への回答

彼が事実誤認だと指摘しているのは、1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」の記事を植村氏のものと私が書いた点だが、これは昨年12月22日に発表された朝日新聞第三者委員会の報告書で次のように事実関係が明らかにされた。

吉見氏は1991年の年末に資料の存在について東京社会部の記者であった辰濃哲郎に連絡をしたと言い、上記朝刊1面記事を中心となって執筆した辰濃は、1991年の年末に吉見氏から連絡を受けて過去の政府答弁などを調べ、当該資料の存在にはニュース性があると判断して記事化を考えた。

これは辰濃氏自身も『朝日新聞 日本型組織の崩壊』で認めており、事実だと考えられる。私の本が出た段階(昨年10月31日)では判明していなかった事実だが、結果として私の記述は誤りだった。私は朝日新聞と一緒にされたくないので、ここで訂正し、植村氏に謝罪する。

この「謝罪」を読んで納得できる人はどれほどいるだろう。
そもそも根拠も出さず筆者を特定したことが誤りだ。事実誤認を示す資料を認識してから謝罪したわけだが、事実が不明なら取材するか、最初から名指ししなければ良かった。
一方、2014年の朝日検証において撤回されたふたつの記事は、根拠は存在していた。専門的な辞書と、当事者の証言、それぞれ当時において信用してもしかたない信頼性はあった。
誠実さにおいて劣るという意味で、たしかに池田氏朝日新聞と一緒にできない。


しかも植村氏が軍関与記事を書かなかったという事実は、第三者委員会の報告書で初めて明らかになったのではない。
2014年8月に公開された朝日検証で、植村氏が登場する検証記事と、軍関与記事の検証記事を見比べれば、別人ということに気づける。
「元慰安婦 初の証言」 記事に事実のねじ曲げない:朝日新聞デジタル

91年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップに出た「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」という記事だ。

 元慰安婦の一人が、初めて自身の体験を「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)に証言し、それを録音したテープを10日に聞いたとして報じた。植村氏は当時、大阪社会部記者で、韓国に出張。

植村氏は、提訴後の91年12月25日朝刊5面(大阪本社版)の記事で、金さんが慰安婦となった経緯やその後の苦労などを詳しく伝えたが、「キーセン」のくだりには触れなかった。

「軍関与示す資料」 本紙報道前に政府も存在把握:朝日新聞デジタル

吉見義明・中央大教授が91年12月下旬、防衛研究所図書館で存在を確認し、面識があった朝日新聞の東京社会部記者(57)に概要を連絡した。記者は年末の記事化も検討したが、文書が手元になく、取材が足らないとして見送った。吉見教授は年末年始の休み明けの92年1月6日、図書館で別の文書も見つけ、記者に伝えた。記者は翌7日に図書館を訪れて文書を直接確認し、撮影。関係者や専門家に取材し、11日の紙面で掲載した。

同じ検証記事において一方が実名で一方が匿名であること。それぞれ「大阪」社会部記者と「東京」社会部記者であること。素直に読めば、これだけで別人と判断するべきだとわかる。
また、朝日検証だけでは確認できないが、著書の略歴*3などから1958年生まれということが以前から知られていた。つまり朝日検証時に55歳から56歳だったわけで、ここからも軍関与報道を植村氏が主導しなかったことがわかる。
池田氏は結果としてではなく、読んだはずの文章を読みとれなかった必然として誤ったのだ。