法華狼の日記

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「末端の将校」が強制募集したスマラン事件と、吉田清治証言の済州島事件を比べてみる

第二次世界大戦において、日本軍が収容所にのりこんでオランダ人を強制募集して慰安所に送りこんだ。いわゆるスマラン事件として1992年に朝日新聞が報じたことで知られている。
さらにインドネシア全体では多くのオランダ人が強制募集され、望まぬ売春をしいられた。そのいくつかが戦後に戦犯裁判にかけられた。
慰安婦にされた女性たち-オランダ 慰安婦問題とアジア女性基金

 オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。(全文はこちら)それによると、日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は200人から300人に上るが、うち65人は売春を強制されたことは「絶対確実である」とのことです。


これに対して、産経新聞ワシントン特派員の古森義久氏は「末端の将校」が起こした事件だと主張している。
【あめりかノート】慰安婦問題 国辱晴らすとき(1/3ページ) - 産経ニュース

この事件は日本軍の末端の将校が軍の方針に反して女性を強制連行し、2カ月後に上層部に判明して停止され、戦後は死刑になった戦争犯罪だった。「日本軍の組織的な強制連行」がなかったことを証する実例なのに正反対の目的に利用されたのだ。

この文章だけではわかりにくいが*1、日本軍は慰安所をいったん閉鎖しただけで関係者を処罰しなかった。
2-6 スマラン事件で日本軍は責任者を罰した? | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

管轄する部隊のトップは、南方軍幹部候補生隊隊長兼スマラン駐屯地司令官の能崎清次少将でしたが、彼は、事件の直後の6月に独立混成第56旅団長になり、1945年3月には中将に昇進しています。4月には第152師団長に就任して、内地に帰り、千葉県銚子附近で本土決戦に備えているのです。
また、たとえば、オランダによるBC級戦犯裁判で10年の懲役刑を受けた幹部候補生隊副官の河村千代松大尉は、1944年12月には少佐に昇進しています。

しかし今回に説明したいのは「末端の将校」という表現のおかしさだ。そこで日本軍が直接的に強制募集に参加した吉田証言と比べてみたい。


かつて吉田証言は強制の証拠とされたが1992年に否定され、日本の歴史学にも政府見解にも反映されていない。しかし、いつのまにか強制の唯一の証拠であるかのようにあつかわれている。
それならば吉田証言で主張された済州島事件より、スマラン事件は小規模な強制でなければならない。吉田証言より大規模な強制が起きていたなら、たとえ吉田証言を否定しても、吉田証言が信用されていた時より重大な責任を認めなければならないはずだ。


スマラン事件で収容所に乗りこんだ中心人物は、大佐だ。ちなみに戦犯裁判にかけられる前の1947年に自殺している*2
吉田証言で証言者の護衛として済州島をまわった部隊の長は、軍曹だ。協力するように軍曹に指示を出したのは、大尉だ*3
スマラン事件を起こした将校の階級が、明らかに高い。大佐といえば海軍ならば戦艦の艦長クラスだし、陸軍ならば連隊長クラスだ。ただ、階級が同じでも役職によって重みは変わる。スマラン事件にかかわった多くは幹部候補生だったため、階級が高かった傾向はある。しかし、それゆえ階級の重みが周知されるような処罰が必要だったともいえる。


むろん、それぞれ上層部から慰安婦を集めるように指示が出ており、現場だけの問題ではなかった。
吉田証言では西部軍司令部の動員命令書が出ていたといい、それが事実であれば中将が最高責任者ということになる。スマラン事件の最高責任者は当時少将だったから、それより階級が高い。
それでは中将が強制連行を指示していたかというと、吉田証言に出てくる動員命令書に募集方法は記載されていなかった*4

一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊二〇〇人。年齢一八才以上三〇歳未満。既婚者も可。但し妊婦を除く。
一、身体強健なる者。医師の身体検査、特に性病の検診を行うこと。
一、期間一年。志願により更新することを得。
一、給料、毎月金三〇円也。仕度金として前渡金二〇円也。

先日のエントリから私の評価を再掲しよう。
吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』を読む - 法華狼の日記

興味深いのは、更新は志願という建前が書かれていること、そして給料や前渡金が明記されていること。内部の命令書という設定だから、給料が募集のための虚偽とは読みとれない。

もともと吉田証言にしても、軍上層部から募集するように指示され、現場が選択した手段のひとつが強制募集だったわけだ。
手段を問わない募集指示であれば日本軍司令部は実際に出しており、各組織と連携していたことが明らかになっている。
慰安婦とは―女性たちを集める 慰安婦問題とアジア女性基金

慰安所は、このような当時の派遣軍司令部の判断によって設置されました。設置に当たっては、多くの場合、軍が業者を選定し、依頼をして、日本本国から女性たちを集めさせたようです。業者が依頼を受けて、日本に女性の募集に赴くにあたって、現地の領事館警察署長は国内関係当局に便宜提供を直接求めています。

つまり、強制を無視した募集指示だけで考えても、スマラン事件が済州島事件より小規模なものとはいえない。


そして募集した慰安婦の人数といえば、スマラン事件だけならば35人だが、インドネシア全体ならオランダ人にかぎっても200人から300人と推計されている*5。一方、済州島をまわって暴力から詐欺までもちいた吉田証言が205人となっている*6
ひとつの部隊が数日かけて募集したという吉田証言の人数は過大という印象がある。しかし組織的に募集した数的な規模だけでいえば、やはりスマラン事件をふくむインドネシア全体が多い。


そもそも、収容所に将校がのりこんで民間人女性を集めて慰安婦にしたて、それが戦争相手国に知られても処罰されなかったという事実そのものが、軍隊組織として国家機関として二重三重におかしい。支配下の植民地で第三者国に知られないまま募集したという吉田証言とは、わけが違う。
もっとも、柳条湖事件を起こして処罰されなかった石原莞爾といい、張作霖暗殺事件で予備役にとどまった河本大作といい、不拡大方針をうやむやにして拡大した日中戦争といい、現場の独断と組織の追認は日本軍全体の問題ではあったか。


まとめると、実行者の階級と、募集された人数は、スマラン事件の規模が大きいといっていい。司令部名義で慰安婦が求められていたことは同じ。
かつて吉田証言だけを信じて日本軍の責任を感じていたという人は、吉田証言が否定された今も、かつて以上に日本軍の責任を感じていなければおかしいわけだ。

*1:「2カ月後に上層部に判明して停止され」という文章そのものがおかしいが。

*2:吉見義明『従軍慰安婦』188頁。

*3:吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』105頁。

*4:前掲書156頁。

*5:インドネシア人に対しては、ほとんど性的暴行に等しいこともおこなわれていた。http://www.awf.or.jp/1/indonesia.html

*6:前掲書100頁。なお計画全体では2000人を集めるような指示が各県に出ていたという。吉田自身の募集が205人ということ。