法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『永遠の0』で広がる視界はゼロ

なぜ漫画版を基本に感想を書くことにしたか

朝日記事で石田衣良から「右傾エンタメ」と批判されていた小説『永遠の0』を、本そういち*1が漫画化したもの。第1巻の第一話はインターネットで試し読みできる。
永遠の0|無料・試し読みも【漫画・電子書籍のソク読み】eiennozero_001
以前に、朝日記事にからんで原作者のツイッター発言を批判したことはあるが、未読だったため作品の評価はできなかった。
作品が「右傾エンタメ」と評価された小説家が、チャンネル桜に援護されたことを喜ぶ - 法華狼の日記
それ以前から『永遠の0』文庫版は手元にあったのだが、原作者のツイッターから受けた悪印象をぬぐえないまま、なかなか読み進めることができなかった。資料から引用や翻案した頁ばかり多く、あまりリーダビリティが高くない。そこで、まずは全5巻で漫画化したものを読むことにしたわけだ。
以下、特に断りがない部分は漫画版を指している。描写における原作者と漫画家の責任を分離することが難しい場合、まとめて「作者」と表記する。

特攻を賞揚するための三つの欺瞞

司法試験に失敗した主人公。無気力に日々をすごしていたある日、姉にさそわれて特攻で戦死した祖父にまつわる証言を集めることになる。
しかし最近まで祖母の再婚相手を血のつながった祖父と思っていたこともあり、祖父が特攻で死んだと聞いても実感がわかないでいた。姉も知人の新聞記者から勧められて証言を集めようとしていただけで、ライターという仕事の足がかりとしか考えていなかった。
しかし祖父とともに戦った日本兵から話を聞き、徐々に興味がわくようになった。高い操縦技術を持つ臆病者という評価、撃墜後に脱出した米軍パイロットの落下傘を撃った逸話、くりかえし語られる妻への思慕。そして残る、生き残ることに全てを賭けた祖父が、なぜ特攻したのかという謎。
そして立派だった祖父の面影を特攻隊員から重ねあわせてもらいながら、無気力な主人公は自信をとりもどしていく。


さすがにベテラン漫画家だけあって作画やコマ割りはしっかりしている。髪型でなく骨格や皮膚のたるみで老若男女を区別できているし、なおかつ現代的な絵柄にまとめている。背景も兵器もしっかり描きこまれていた。
最後に明かされる人間関係と、幻想としての帰還をはたしていたという結末も悪くない。ただしこの結末は本質的には復員の物語であって、特攻という状況設定とは関係がない。
そして、物語の中核をなす特攻隊員を擁護し賞揚する根底に、大きな欺瞞をかかえている。その欺瞞についてフォローしないまま高い表現力で漫画化した結果、醜悪さを増してしまっていた。


その欺瞞とは、大きくわけて三つある。
特攻批判の根底に隊員の悪魔化があるという虚偽。
戦争で相手が兵士ならばしかたないという思想。
誰が戦争をはじめたのかという経緯の無視。
この三つが相互に関連しながら、特攻の問題点を矮小化していく。その手法について、順番に説明していこう。

特攻批判の根底に隊員の悪魔化があるという虚偽

第1巻の第一話、主人公は祖父の調査をもちかけられた時、「特攻隊ってテロリストらしいわよ」という意見を姉から聞いて衝撃を受ける。これは試し読みでも確認できるが、頁の上半分を使った見開きで描かれ、物語の要所として位置づけられている*2
第3巻第十七話でも、主人公は姉が受け売りした新聞記者から直接に意見を聞かされる*3。新聞記者は9・11のような自爆テロが世界をおおっていることを憂い、世界史的にも珍しい組織的な自爆攻撃として「カミカゼアタック」と共通項があるのではと推測。そして特攻隊員は志願者で構成されていることや、手記に見られる殉死精神から、洗脳の被害者と評価する。主人公は軽い反感をおぼえつつ、一理あると認める。
この時点で、根底の価値観がおかしい。主人公は特攻隊員を悪魔化することにためらい、新聞記者は洗脳された被害者と位置づけつつも悪魔化している。しかし二人ともテロリストは説明なく悪魔化している。ひとくちにテロといっても、経緯や心情や対象はさまざまだ。アイルランドのように独立運動家がテロリストと呼ばれることもあるし、地域紛争の当事者同士がたがいをテロリストと非難することもある。


現実に、筑紫哲也田原総一郎の対談で、自爆テロのひとつとして特攻が言及されたことはあった。それに対して『週刊新潮』等で反発があり、特攻を揶揄したという情報だけがインターネットに流れている*4
しかし以前に発言を確認してみたところ、二人が特攻隊員を悪魔化していたわけではなかったし、無差別テロと同一視していたわけですらなかった。田原は、自分が特攻隊に憧れをもっていた過去をふりかえり、戦前日本の恐ろしさを語っていたのだ。
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自らも特攻隊になろうとした軍国少年の心情によりそって「テロリスト」と呼んでいる。
そもそも筑紫主張の何が間違っているのか、よくわからない。ページの書き手は911アメリ同時多発テロと神風特攻隊は違うと主張する自らのページへリンクを張っているが、読んでみると無差別テロと特攻隊の違いしか述べていない。しかもパールハーバーの事態推移にルーズベルトの意図をかんぐっており、いささか特攻隊への見解自体が陰謀論にかたむいている。「無差別」でないテロという考えもあることを意識していないので、筑紫批判としては的を外している。
http://www.tamanegiya.com/tero.html
筑紫は「テロの定義は難しい」とも述べているし、「国家そのものがテロ国家になってゆく」という指摘も日本が満州事変に突入した経過などをふりかえれば否定することこそ難しかろう。

人間を自爆攻撃に導く社会を批判しつつ、特攻隊員に憧れた軍国少年としてテロリストを理解しようとしていた。これは悪魔化とは逆の行為だし、時代の空気を証言したという側面もある。『永遠の0』の、戦後社会で生まれ育った新聞記者とは全く異なる。
おそらく、反発した者こそがテロリストを単純に悪魔化しており、それゆえに筑紫と田原の発言を特攻隊員の悪魔化と解釈したのだろう。


もちろん独立した物語のキャラクターとしてなら、特攻隊員を悪魔化するジャーナリストが登場してもいい。対立する人間を愚かにして主人公側を相対的に美化することは、安易ではあるが一手法ではある。しかし背景の異なる特攻批判と特攻隊員批判を同一人物に背負わせたため、愚かというより整合性のない藁人形と化している。
そもそも自爆攻撃を悪魔化しているという根幹において、実は主人公と新聞記者は対立していない。環境や宗教に自爆攻撃をしいられたテロリストと、戦争や国家に自爆攻撃をしいられた特攻隊員、その両方を悪魔化しないという考えは最後まで描かれなかった。他にも、戦端を開いた侵略国家の特攻隊員を擁護せず、侵略と攻撃をうけつづけて他に反撃の選択肢がなくなったテロリストに同情するキャラクターも想定できるが、やはり登場しなかった。
つまりこの作品は、知見を広げることで特攻を擁護しているわけですらない。むしろテロリストを理解するような情報は避けて、特攻隊員を擁護できる情報のみ選択的に集めることで、相対的に日本軍を特別視している。特攻隊員を悪魔化しないような特攻批判には関係ない話だ。


やがて第4巻の第三十話で、主人公の調査に同席した新聞記者が特攻隊員と論争する。新聞記者は遺書に愛国心や殉教精神が書かれていることにこだわり、死を恐れていないことから洗脳されていたと主張する。対する特攻隊員は遺書が自由に書けた時代ではないと反論する。
ここでも本質的な対立はない。特攻が国家や軍隊にしいられていたという主張は、新聞記者も特攻隊員も同じ。むしろ死にたくない者を死に追いやったなら、より強く国家の責任を問える。この場面で特攻隊員の解釈に同調しても、新聞記者が大きく考えを変える必要はない。対立のための対立だ。
違いといえば、特攻隊員は国家への殉死しか考えられない状態にされていたという新聞記者と、「私は愛国者だったが洗脳はされていない!! 死んでいった仲間たちもそうだ」*5という特攻隊員の差くらいだ。むしろ特攻隊員の解釈こそが、特攻隊員の愛国心に自己責任を見いだして、国家や軍隊の責任を相対的に薄めている。
次に特攻隊員は、遺書の行間から家族への深い愛と生きたいという本音を読む。この場面では明言していないが、これは家族や仲間のためという方向性から自己犠牲を擁護する考えであり、犠牲にしたものの大きさから特攻を美化する伏線と考えて良いだろう。


そして特攻隊員は、自爆テロの対象が非戦闘員であると指摘し、敵兵士を攻撃する特攻とは違うのだと主張した。
ここでようやくテロリストを悪魔化する理屈が作品で具体的に語られた。しかし本質的な反論にはなっていない。攻撃対象が何であるかと、その攻撃をしいられた末端が悪魔化されるべきかどうかは関係ない。攻撃すべきでない対象を攻撃したことは、より状況にしいられていることの傍証にすらなる。
この反論にならない主張は、次に見る二つめの欺瞞とも関連している。

戦争で相手が兵士ならばしかたないという思想

先述したように、主人公の祖父は空中脱出した敵兵の落下傘を空中で撃ったことがある。これは第1巻の第六話、主人公がはじめて聞き取りをした日本兵の証言に出てくる。さすがに明らかな反倫理行為を描写したからには、後でそれなりに納得できる真相が出てくるだろうと思っていた。
しかし第4巻の第二十五話、祖父の部下からの伝聞証言では、ただ「戦争とは敵を殺す事だ」「米国の工業力は凄い! 戦闘機なんかすぐに作る」「だから我々が殺さないといけないのは搭乗員だ!」*6という理由で撃っただけだった。自分も米兵も人殺し、殺さなければ後で殺される、だから戦闘不能状態の相手も撃ったという、凡庸な動機。


もちろん最終的に立派な人物と位置づけられるべきキャラクターには、別の角度から救いが与えられた。しかし第4巻の第二十六話で語られたそれは、殺したはずの米軍パイロットが生存していたという、物語として最低の展開だった*7
しかも戦後の日米兵士交流パーティーで出会った米軍パイロットは、祖父の部下に対して「戦争だから当然だ! 我々はまだ戦いの途中だった… 彼は捕虜を撃ったのではない」*8といった考えを長々と語った。傷つけた相手から主人公が許しの言葉をもらってもいいのは、徹底した贖罪の果てか、許しの言葉が新たな罰となる場合くらいだ。しかし戦死した祖父は部下から間接的に苦しみを伝えただけであり、それ以降に落下傘攻撃の逸話が語られることもなかった。


ここで先述した第4巻第三十話に話がつながる。自爆テロとは対象が違うのだと特攻隊員は主張し、「我々が特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない!」*9と叫ぶ。それを新聞記者も黙って認める。
こうして作者は「カミカゼ」から自爆テロを切断処理した。ここまでハードルを下げないと自爆テロと差別化ができないと作者は考えている。相手が軍隊であればどのような攻撃を選択してもしかたないという擁護、その線引きのために作者は主人公の祖父を「臆病者」と設定したのだ。
本当ならば特攻を賞揚するためであってさえ、このような行動をわざわざ設定する必要はない。作中でも多くのパイロットが非難する行為だ。しいられた自己犠牲を擁護するためであっても、脱出時の敵でも殺すべきなどという思想を導入する必要はない。
素直に、戦争に犠牲をしいられた個人への普遍的な理解を優先していれば、ハードルを下げなくてもよかったのだ。


次に、特攻隊員は「米空母は我が国土を空襲し一般市民を無差別に銃爆撃した」*10とも批判する。無差別テロリストと空母を同一視することは問題ないだろう。しかし特攻の対象が航空母艦だけであるかのような説明は自己欺瞞だ。現実には空母より護衛する駆逐艦の戦果が高い。
それに、脱出したパイロットを追撃した祖父の理屈が許されるならば、無差別爆撃した米軍も同じ理屈を主張するだろう。軍需工業地帯が住宅群と近接していたことが精密爆撃から無差別爆撃へきりかえた一因だし、沖縄戦等で日本は民間人も戦闘にかりだしていた*11
この作品には他国の視点がいっさいない。これが三つめの大きな欺瞞だ。

誰が戦争をはじめたのかという経緯の無視

あきれたことに、米国の主張を主人公が知る場面は、第4巻の部下からの伝聞証言しかない。つまり作品に存在する敵国の言葉は、主人公の祖父を免罪するパイロットの台詞だけだ。
日本と戦争する正当性を米国がどのように理屈だてたか、米国は日本軍の非人道行為を知っていたか、フォローするどころか描写そのものが存在しない。たとえば真珠湾攻撃は日本側視点で「奇襲」と表現されるだけで*12、宣戦布告に先行して攻撃したことはもちろん、「リメンバーパールハーバー」という有名な文句すら描写されない*13
第5巻の最終話に、祖父の特攻を受けた米軍艦の乗員視点があるものの*14、それは主人公の知らない出来事として処理されている。しかも特攻に恐怖して悪魔化する乗員と、勇敢なパイロットとみなして尊崇の念をいだく上官が描かれているだけで、戦争の背景はやはり描かれない。
そして日本と米国を除いた国家の視点は、いっさいない。戦地としてニューギニアやフィリピンといった地域こそ描かれるが、登場するのは基地の周辺だけで、現地人の心情をうかがわせる描写はない。


第3巻の第十九話で作戦目的を説明する時、いあわせた孫へ証言者が米国以外とも戦ったことを「あの戦争で日本はアメリカとだけ戦っていた訳ではないのだよ… 南太平洋の島や国々を巻き込み アメリカの同盟国豪州や英国など世界を敵に回し戦っていたんじゃ」*15とだけ説明している。第二次世界大戦の知識をもたない読者への説明だとしても、中途半端で誤解をまねくだろう。
日本軍が自作自演で鉄道爆破して満州事変を起こしたこと、世界に非難されて国際連盟を脱退したことは描かれない。米国で報道された南京事件も、日本軍による重慶無差別爆撃も描かれない。もしどれかひとつでも言及されていたなら、特攻をテロとみなす主張に反論することは難しかったろう。
日中戦争すら言葉としては登場しない。せいぜい第3巻第十八話において、祖父が中国戦線から来たエピソードにからめて、中国における空中戦の傾向が説明されたくらいだ。
歴史を深く知ることによってでではなく、義務教育段階の知識を忘れることで成立する物語。


それでも特攻隊員を代弁する物語に徹していれば、戦争の背景を省略しても許されたかもしれない。
しかし、第4巻第三十話で新聞記者と議論した特攻隊員は、日露戦争から日本が軍事国家になっていった歴史を語る。ただし「あの戦争を引き起こしたのは新聞社だと思っている!」*16という言葉で始まることから明らかなように、新聞が世論を扇動して戦争へ導いたという、古い認識でしかなかった。
たしかに報道も戦争に加担していたことは事実で、敗戦直後から各メディアも自己批判をしていた。日露戦争に勝利しながら賠償金が不十分だったという不満が、日本の軍国主義を増長させたことも事実だろう。しかし軍隊より報道に責任があるという主張は、主導者と支援者の軽重をとりちがえている。515事件や226事件に言及して軍事クーデターと断じながら、減刑世論を新聞が煽ったから軍部主導の暴走を誰も止められなくなったという。それを軍人が主張しているのだから、客観的に読めば責任転嫁でしかない。
反戦を主張したのは徳富蘇峰国民新聞くらいだった」という台詞にいたっては、日露戦争後の説明として間違いだ。徳富は日清戦争前後から体制翼賛へかたむき、太平洋戦争においては開戦の詔勅を添削したりもした*17日露戦争後に焼き打ちされたのは講和した政府を支持したためにすぎない。この場面は、日露戦争初期に反戦論をとなえた万朝報を紹介するべきだろう。放出した有力執筆者が反戦思想をつらぬいた万朝報と、体制翼賛をつらぬいた国民新聞とで、なぜ後者をもちあげるのか。
それに先日の『NHKスペシャル』でも描かれたように、日中戦争時でさえ反戦的な言論が完全に消えたわけではない。しかし厭戦的な表現は激しく弾圧され、多くの表現者は軍部のプロパガンダ政策に組み込まれていった。
『NHKスペシャル』従軍作家たちの戦争 - 法華狼の日記
特攻隊員は前後して、特攻隊員は洗脳などされていないと主張していた。なのに新聞が世論を扇動したとも主張している。我々と違って大衆は洗脳されていた、という主張と解釈するしかない。「夜郎自大とはこのことだ」*18と新聞を批判した台詞は、それを発した特攻隊員にこそ当てはまる。


この特攻隊員は、最後に新聞記者へ語りかける。「今日この国ほど自らの国を軽蔑し近隣諸国におもねる売国奴的な政治家や文化人を生み出した国はない」「死を決意し我が身なき後の家族と国を想い 残る者の心を思いやって書いた特攻隊員達の遺書の行間も読みとれない男を 私はジャーナリストとは呼ばん」*19と。
主人公も議論後に、特攻隊員から答えを教えてもらったと感じて「スッキリした 本当に… スッキリした」*20と独白する。
この台詞を書いた作者は、きっと心地良かったことだろう。いや、ここで心地良く批判するため、日本が近隣諸国をしいたげた歴史を書かなかったと考えるべきか。義務教育段階の知識で破綻する物語。
しかし、同時に思わず作者の本音がもれてしまったようだ。死にたくないという本音など遺書に書けるわけがないと新聞記者を批判していたのに、ここで特攻隊員が死を決意していたと明言している。矛盾する感情をもつのが人間とはいえ、物語のキャラクターには一定の一貫性が必要だろう。

存在しない謎の答は最初から空虚

そもそも強いられて特攻したのだから、そのことを特攻隊員の証言から聞いた時点で、疑問は解消されている。祖父本人の思想や欲望が何であれ、特攻したこととは独立している。なぜ祖父が特攻したのかという主人公の疑問は、生き残ろうとした祖父ですら最後に自己犠牲を選んだという答えに導くためでしかなかった。
この作品は結論から逆算して疑問を配置する傾向にあるのだが、一個の人格が発した疑問として整っておらず、作者の誘導が見えすいている。


結末が復員の物語にすぎないことは最初に書いた。祖父は最後に幻想の帰還をはたすのだが、その前段階としての戦死は、別に特攻による必要がない。
そこで自己犠牲の賞揚と結びつけるため、特異な状況設定で祖父が特攻を選択したことが結末で明かされる。祖父は搭乗機の不調に気づき、これならば特攻の途中で引き返しても許されると考えて、他人へとゆずったのだ。いわゆる「トロッコ問題」だ。
深く考えるまでもなく、敗戦目前に生き残るためだけならば他の手段も考えられる。だから祖父は不調を天恵と思いつつ、教官として若者を特攻へ送り出した責任を感じ、若者を生きのびさせることを選んだ。つまりは多くの若者を特攻に追いやった罪を感じて、生き残る意思を失ったということ。特攻を推進した軍人の多くが生きながらえたことを思うと、美しい物語ではある。
だが、この物語に普遍性はない。特攻と結びついた固有性もない。現実の批判から耳をふさぎ、作中の矛盾に目をふさいで、ようやく成立する虚構にすぎない。

*1:須本壮一名義。

*2:32〜33頁。それ以前にも22〜23頁にかけて見開きがあるが、あくまで日本軍機の一大編隊を見せる演出でしかなく、擬音すらないことから重要な場面ではないとわかる。

*3:「日新聞」というロゴが見えることや、第4巻で「戦後変節して人気を勝ち取った」と評価がくだされていることから、朝日新聞がモデルと思われる。

*4:Wikipedia筑紫哲也」項目の最新版でも、「幼少の田原氏の「特攻隊をやろうと思ってた」という独白に対して、特攻隊員を「自爆テロリスト」と揶揄。批判を浴びた」とある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E5%93%B2%E4%B9%9F

*5:第4巻158頁。

*6:第4巻46頁。

*7:http://www.tante2.com/sakai-saburo-d.htmによると、『大空のサムライ』の坂井三郎も、自分が殺したと思った米兵と戦後に再会した逸話があるそうだ。もちろん坂井は脱出したパイロットを撃ったわけではない。逆に血で染まった米兵を見て衝撃を受け、操縦席ではなく機関部を撃つという手心をくわえ、脱出するパイロットを見ながら生還することはないだろうと考えていた。もしこの逸話から拝借したのだとすると、特攻の賞揚のためそこまでするのかと驚かされるが……

*8:第4巻62頁。漫画版では以降も免罪の言葉がつづいている。一方、原作小説では米軍機の性能が高く自陣で戦ったから米軍は勝てたのだという話題へ移っている。文庫版229頁以降。

*9:第4巻165頁。

*10:第4巻166頁。

*11:もちろん私は無差別爆撃も許されないと思うし、脱出したパイロットを殺すことにも嫌悪感を持つ。

*12:第2巻107頁等。

*13:まだ精読していない原作小説には記述があるかもしれない。

*14:原作小説では冒頭にも同じ視点が少しある。

*15:第3巻83頁。さすがに原作小説ではない台詞だが、逆に作戦目的がわかりにくい。

*16:第4巻167頁。

*17:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20081224/1230647796

*18:文庫版423頁。文庫版はこの言葉から新聞に戦争責任があるという主張が始まる。他の台詞回しは口調が違うくらいでほとんど漫画版と同じだ。

*19:第4巻171頁。

*20:第4巻173頁。原作小説では、新聞記者の言説が英霊に失礼だったと後に批判し、今では新聞記者も間違いを認めていると姉が弁護する。いずれにせよ、特攻隊員の主張は正しいものだと物語ではあつかわれている。