法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

知覧とアウシュビッツ、特攻とホロコースト、それぞれ何が似ていて何が違うのか

知覧特攻平和会館がある鹿児島県の南九州市と、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館があるポーランドオシフィエンチム市。
知覧特攻平和会館とは/知覧特攻平和会館
Auschwitz-Birkenau
それぞれ特攻とホロコーストという死を国家に強要された歴史を持つ地域として、友好交流協定を結ぶ予定が7月15日に発表されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20150716-OYS1T50017.html

南九州市によると、旧陸軍知覧飛行場跡にある平和会館での同市の取り組みを知ったオシフィエンチム市のアルベルト・バルトッシュ市長から5月末頃、連携を働きかける親書が霜出勘平市長に届いた。これに賛同した霜出市長は今月8〜12日、さっそくオシフィエンチム市を訪れ、協定締結を確認し合ったという。

 南九州市は9月21日の国際平和デーに合わせ、世界各国の学生らが平和について考えるイベントを市内で開催し、バルトッシュ市長も招待して協定を結ぶ予定。

これは知覧特攻平和会館世界遺産登録を目指していることと無関係ではなかった。
南九州市が5月13日にひらいた記者会見でも、静岡大学のM.G.シェフタル教授がプロジェクトアドバイザーとして下記のように言及していた。
「賛美・美化が目的ではない」〜特攻隊員の遺書などの世界記憶遺産を目指す南九州市長らが会見 (1/2)

第二次大戦のあらゆる悲惨なもの、火に包まれた都市、陥落した街に兵士に入っての破壊行為、強制収容所、原爆…本当に狂気であり、残虐です。これらは人類全体の失敗を意味すると思います。狂気が私達全体を覆ってしまった時期です。

この時代は、殺傷能力やテクノロジーの進展に私達の"正気"が追いついていかなかった時代だと考えています。
また、それが国家のプロパガンダによって推進され、人々が相互に憎悪しあい、愛国的なレトリックの虜になってしまいました。知覧の資料はそうしたことを示すタイムカプセルだと思います。

この記者会見においてシェフタル教授はもちろん南九州市の霜出勘平市長らも、特攻を美化しないむねを強調していた。


しかしこの友好交流協定の見直しが検討されていると、まず7月25日に産経新聞がつたえた。
特攻とナチスの虐殺は違う 鹿児島南九州市・知覧、「アウシュビッツ」との連携見直しへ 遺族らから反対意見相次ぐ(1/2ページ) - 産経ニュース

友好交流協定について、締結見直しを検討していることが24日、分かった。特攻隊員の遺族らから「ナチスによるユダヤ人差別・虐殺の象徴と、特攻基地を同一視すべきではない」などとする反対意見が相次いでいるためで、市は仕切り直しを余儀なくされそうだ。

自民党鹿児島県連の関係者などは、特攻が忌まわしい過去ではないと断言したという。
特攻とナチスの虐殺は違う 鹿児島南九州市・知覧、「アウシュビッツ」との連携見直しへ 遺族らから反対意見相次ぐ(2/2ページ) - 産経ニュース

党県連関係者は「地方自治体の取り組みに干渉はしないが、アウシュビッツと異なり、知覧は決して『忌まわしい過去』ではない。違和感を覚えられる遺族の心情は理解でき、国際的に知覧が『日本のアウシュビッツ』と誤解されないか心配だ」と語った。

たしかに知覧とアウシュビッツの違いは複数ある。戦争において侵攻した国と侵攻された国。犠牲となったのは兵士と市民。国際的な知名度も異なる。むしろ南九州市は助けてもらう立場だ。


しかし7月28日の西日本新聞によると、南九州市は協定締結を断念したという。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/184892

「民間人虐殺と国を守る戦闘行為を同列に扱うな」などの反対意見が相次ぎ、締結に向けた協議を中止した。

当時において国を守るとは、国体護持つまりは天皇制を守ることにすぎず、民間人に犠牲をしいたことは変わらない。後述するように、権力を維持するための政策として、特攻とホロコーストに共通点がないわけではない。
南九州市によると、もともと交流の呼びかけはポーランド側からだったというが、協定をむすぶことに合意していたのは事実。世界遺産登録への期待があったこともたしからしい。

市によると、締結に動いたきっかけは5月下旬にオシフィエンチム市のアルベルト・バルトッシュ市長から届いた親書。「悲惨な過去を後世に伝える責任がある点で共通している」と交流を呼び掛ける内容だった。南九州市は特攻隊員遺書の世界記憶遺産登録を後押しする効果も期待し、その後の協議で、バルトッシュ市長が9月下旬に南九州市を訪れ協定を結ぶことに合意。


いうまでもなく、特攻とホロコーストは、どちらも人間の尊厳を奪う大量死であり、永続性のない無意味な社会政策であった。
違いと主張されがちな国家を守るという目的は、特攻とホロコーストで共通していないわけではない。絶滅政策における財産の収奪は、非ユダヤ人にとっての高福祉社会をもたらし、ナチス政権への支持にむすびついた。
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_4_Heim.pdf*1

個人財産の所有権が移ったことに加え、ユダヤ人の病院が軍の病院に、ユダヤ人の老人ホームが ‘アーリア人’ の子供のための施設に指定されるといった措置もとられたが、それがなければ非ユダヤ人に対する社会保障が大戦中にあれほど高いレベルで維持されることは不可能だったであろう。

特攻による犠牲に意味があったと考えたい感情も、ホロコーストに見られないわけではない。一例として、ドキュメンタリー映画『ショア』のクロード・ランズマン監督による映画『シンドラーのリスト』批判がある。
『ショアー』その2

ランズマンは「600万人はイスラエルが存在するために死んだのではない」と主張します。あくまでもホロコーストイスラエル建国は別の次元の問題なのだと。確かに、ホロコーストイスラエルを結びつける発想は、逆に虐殺の事実があるがゆえにユダヤ人がイスラエルを建国したことを正当化することに繋がっていきます。あるいは多くのユダヤ人が心情としてそう思っているのかもしれません。

社会の犠牲が無意味な死であったと認めたくない感情。それは普遍的なものであり、けして特攻の遺族に特権的なものではない。


先の西日本新聞において、霜出市長は断念した理由を下記のように説明した。

霜出勘平市長は「締結すれば元隊員や遺族を傷つけ、混乱も予想されるので断念した。特攻を広く発信することで『狂信的』といった海外の評価を変えたかったが、これほどの反発は予想しなかった」と話した。

しかしこの断念の経緯が知られると、「狂信的」という評価がかたまるだろう。それも過去の歴史ではなく、現代の社会のこととして。
無価値なことを有意義であるかのように飾りたてること、それはまさに信仰に他ならない。

*1:引用はノンブル112頁。