法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『魔法少女まどか☆マギカ』雑多な感想

最終回まで見終えて、ほぼ納得がいった。
主人公の願いは、いわゆる願いを無限に増やすとか全ての希望をかなえるとかの禁じ手に近いとか、物語としては御都合主義に近いと感じる人もいるかもしれない。しかし願われた言葉は一つだけであって、影響の範囲も無制限でもない。きちんと作中で示されてきた法則に従った上で、予想外の展開に導き、物語を閉じた。
魔法少女によって成り立っている社会においては、魔法は普及した技術や能力にすぎない。SF設定が魔法の背景に示唆されている作品ならば、なおさらだ。普及した技術や能力とは異なる法則外の能力を使う存在……つまりは本来の魔法少女が持つ立ち位置についたのは主人公だけ。ここで作品タイトルが意味を成す。


虚構の法則を最初に提示し、その法則を延長し発展させて新たな世界観*1を作り出した結末は、SFが根本に持つ楽しみと近い。宇宙の法則に説明のつかず不思議と好都合な領域が存在するという結末の会話にしても、現実の科学で似たような表現が使われてSFに利用されている。
暁美ほむらは時間をくり返してやりなおしてきたことが第10話で示されたが、そうして過去を使い捨ててきたことの問題を第11話で描写。その上で第12話の鹿目まどかが願ったことで知られざる過去……暁美ほむら自身しか知らない努力と、やり直されることで無かったことにされた人々のドラマと……が二重に救われたという順序も良かった。
そうして最終的に提示された新たな世界観が、一般的な魔法少女作品に近いという落とし所も楽しかった。


また、第11話において、魔法少女の願いが人類を発展させてきたという描写も面白かった。もちろんSF描写と見るなら古典的すぎるほどで、当然に予想すべきことではある。シリーズ構成上の必要性にせまられた描写でもあるだろう。ここで歴史を知る描写がないと、短い物語では主人公が重みを知ることができず、魔法少女達の願いを背負う説得力に欠ける。
しかし、この描写は、「魔法少女」という言葉の持つイメージが、過去から人類社会が少女に願いを仮託してきたことの極北であることをも示す。この提示が、ひるがえって『魔法少女まどか☆マギカ』という作品をふくめた、魔法少女物が根本に持つ御都合主義……なぜ少女の超越した力で救いを安易に行わせるのか……といったことへのエクスキューズとしての意味も持つ。主人公による自己犠牲の変種でしめくくられた作品ではあるが、第11話があっただけで印象がかなり変わったと思う。


作品全体も、残念ながら諸事情による中断をはさんだものの、第3話ごろから高まった熱を失わないまま、うまく走り抜けられたと思う。様々な省力演出も多用していたが、アニメとして動きの魅力がある作画が毎回のように楽しめた。
劇団イヌカレーによる異世界は、表現自体は特段に良いとは思わなかったものの、明確な異質さで恐怖感を盛り上げたり、状況の切り替わりを明示する演出として効果を上げていた。このことで、最終回の結末で魔法少女の戦う相手が劇団イヌカレー表現ではないことで、一般的な魔法少女の世界になったことをも示し、一種の安心感を映像上で生み出す効果もあった。
個人的には、冒頭で3話ものコンテを手がけた芦野芳晴が監督した『魔法少女隊アルス』を少し思い出した。魔法少女が特別な存在ではなく一般的となった社会に、魔法少女に大きな意味を見いだす主人公が乱入し、社会のありかたを変えていく展開が通じている。結果としてキャラクター関係も似ている。アルスが鹿目まどかだとすれば、シーラは暁美ほむらか。

*1:世界設定という一般的な字義と、世界に対する観点という本来の字義と、その両義で。