『魔法少女まどか☆マギカ』の設定と評を見ていて思い出した、他に類を見ない魔法少女作品がある。
____ / \ / ─ ─\ / (●) (●) \ | (__人__) | 挫折した先輩、巴マミ・・・ / ∩ノ ⊃ / ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | . \ /___ / ____ / \ / \ ,_\ / (●)゛ (●) \ | ∪ (__人__) | そして新キャラクターは佐倉杏子・・・ / ∩ノ ⊃ / ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | \ /___ / ____ / \ / \ / \ | \ ,_ | / ∩ノ ⊃―)/ 佐倉・・・マミ・・・ ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | \ /___ / | ____. \ __ / / \ _ (m) _ / ─ ─\ |ミ| / (●) (<) \ / `´ \ | (__人__) | / ∩ノ ⊃ / 佐倉魔美?! ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | . \ /___ / ____ / \ / ─ ─ \ / (●) (●) \ | (__人__) | ・・・いや、ないない \ ` ⌒´ ,/ r、 r、/ ヘ ヽヾ 三 |:l1 ヽ \>ヽ/ |` } | | ヘ lノ `'ソ | |
……ということで、『魔法少女まどか☆マギカ』ではなく『エスパー魔美』の話である。
真面目な話……かどうかはさておき……下記のような魔法少女論を展開しているhokusyu氏に『エスパー魔美』をどう位置づけるか質問してみたい気持ちがある。
約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去
魔法少女は、何も知らぬままにその法を侵犯し、法の侵犯によって、罪が与えられる。つまり、魔法少女となるのである。魔法少女は罪を贖うための存在である。まったく知らなかった法だったとしても、それに違反したことによって、一方的に贖罪を負わされるのである。
『まどか☆マギカ』の魔法少女たちを魔法少女となし、その使命(魔女との戦い)に追い立てる暴力は、キュゥべえの暴力ではなく、まさにこの運命の神話的暴力である。
『エスパー魔美』の主人公である佐倉魔美は超能力を操るが、力の由来として魔女の血が流れていることが示唆されており、その作中において魔法と超能力は等号で結ばれている。
そして魔美が人助けへ駆り立てられるのは、他者の危機を警告音として知らされるためだ*1。まさに力によって同時に義務を負っている。力がそのまま感情にうったえかけて義務的行動を引き出す設定は合理的だ。
また、魔法少女の運命と義務を指摘する存在として、契約相手も存在する。
そもそも魔法少女の契約が、暴力的に行われることは珍しいことではない。むしろ、契約概念一般が、暴力的なものを抜きにしては成立しえないのである。魔法少女概念において、その暴力は、しばしば運命とよばれる。運命が暴力の所有者であり、(しばしば誤って認識されているように)魔法少女の契約相手、たとえばお供―キュゥべえのような―がその所有者なのではない。お供はすべてを知っているようにみえて、運命が猛威を奮いだしたとたん、一瞬にして化けの皮がはがれ、その無能さを発揮する。
魔美に力を与えたという意味での契約相手は最初から存在しない。お供に見える「コンポコ」という小動物を飼っていて、時に助けられたりもするが、超能力とは関係ない。かといって魔女の自覚と人格を最初から持つ、『魔法使いサリー』に代表されるような「魔女っ子」でもない。
代わりに魔美は高畑和夫という契約相手を持つ。高畑は運命の所有者でも、契約によって与える魔法の所有者でもない。契約相手は力の所有者ではないという指摘が正しいならば、力の所有者であるかのように装わない誠実な契約相手といえるだろうか。力の所有者ではなく外部から推測しているだけなので、魔法に対して時に無知をさらけだしても御都合主義や無駄な秘匿主義と批判されることもない。
まどか以外の魔法少女はすべて失敗として描かれなければいけない。あらゆる物語において、主人公である三男は兄二人の失敗のあとに出発し、成功を手にするものなのである。世界の救済役がまどかに割り振られているのは自明である。救いのない設定は、まさにそれを救済するべきまどかを際立たせるための引き立て役にすぎない。
高畑は積極的に超能力へ憧れ、魔美の力を自分の力であるかのように勘違いすらした。高畑は契約相手であると同時に、引き立て役でもある。どちらも主人公の魔法少女としての位置づけを示す役割なのだから、同一人物へわりふって整理することは合理的といえる。
高畑は知力と技術で魔美を助け、人助けに超能力を用いるという協力関係を結んでいる。問題だらけの世界と対峙するために、秘密を共有するただ一人のともである。運命の行使者ではなく、運命の指摘者である。
また、淡くではあるが高畑が魔美と恋愛関係にあるところも興味深い。少なくない魔法少女が最終目的としている恋愛成就が、魔美にとっては魔法少女活動への行動動機すなわち「運命」に位置づけられている。魔美の魔法少女としての活動は終わらないし、その必要もない。
魔法少女として魔美を行動させる高畑が、あくまで能力的に人間であるため魔美をつなぎとめ、人間社会から切り離された魔女にさせることもない。同時に最も広い知見を持つことで、おぞましい人間社会の深淵を魔美の代わりにのぞきこみ、魔法少女を守る役割も果たす*2。
ちなみに家族が憧れの職業についているという魔法少女の類型も、画家の父と記者の母でふまえている。同時に、ただ憧れの存在に終わらず、しかし高貴な職業の苦悩という美化の裏返しでもなく、地に足のついた生活感を描いているところが独特に思える*3。
一見して『エスパー魔美』は魔法少女らしくない部分も多く、過去の私も高年齢を対象とした藤子F作品でバディ物として傑作だ、といった程度の考えしかなかった。
しかし思い返してみれば、類型としての魔法少女を極北までつきつめ、かつ無駄を排した作品ともいえないだろうか。識者*4の反応を待ちたい。