法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

敗戦直後のメディア自身が語る、メディアの戦争責任

自身による過去報道の責任へ言及したメディアとしては、最近も2008年にTBS系列で放映された特別番組が印象的だった。
『シリーズ激動の昭和 あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』 - 法華狼の日記

もちろん番組はジャーナリズムに対しても批判の目を向ける。
雄弁な言葉で戦意を高揚し、日米開戦の詔勅を添削するなどして戦前に「活躍」したジャーナリスト徳富蘇峰*6を大きく取り上げている。のみならず、ドラマ自体も若きジャーナリスト吉原政一が戦後から日米開戦の経緯を調べる形式で描かれる。吉原は徳富から情報を得つつ衝突し、自身をふくめてジャーナリストのありようを批判する。
そうして批判する戦意高揚記事に、地味に東京日々新聞が引用されていた点は番組制作者の誠実さを感じた。東京日々新聞は毎日新聞の前身にあたる。

*6:日米開戦の世論を扇動し、日米開戦詔勅の添削まで行ったが、戦犯にはならず1957年死去。

戦前のメディアもただ抑圧されるだけでなく、時に積極的に戦争を側面支援していたことは、ある程度まで現在のメディア自身が反省し、周知されている。むしろ、メディアの戦争責任を強く主張する影に隠れて、別の責任を消すような向きにも注意をはらわなければならない段階だとすら思う。


さてこれは誰の発言でしょう? - Apeman’s diary

軍部がメディアを介して煽った世論がやがて軍部を縛った……という見方が戦後間もなくからあったことがわかります。単に軍部なりメディアなり民衆なりの戦争責任をとりあげるだけでなく、それぞれの戦争責任が敗戦後どのように論じられてきたかという歴史も含めて認識することが重要なのでしょうが、これはテレビではなかなか難しい課題なのかもしれませんね。

Apeman氏が紹介した小説は1949年のもの。しかし、もっと早い批判もあった。
たまたま手元に日本のメディアと戦争のかかわりを論じた高崎隆治*1『戦時下のジャーナリズム』があるのだが、その「序」で敗戦後に自らの責任を直視できないメディアの姿が描かれている。
特に印象的だったのが、戦後復刊第一号の『文芸春秋』1945年10月号後記を引用したくだりだ。メディアの無責任ぶりを『文芸春秋』が辛辣に指摘している*2

「(略)我々の過去の道はジグザグであつた。あらゆる強要に対して家畜の如く柔順であつた。柔順である以上に番犬の役を購つて出た者もあつた。今日の悔過の激しさを役立てねばならない。」

「昨日迄一億総蹶起、本土決戦を強調したアナウンサーがその口調と音声で今日は軍国主義を忌憚なく指弾し民主主義を高調してゐる。アナウンサーは人格ではなかつたのだ、機械なのだ、と市民は言ふ。」

つまり敗戦から一年もたたない間に、がらりと論調を変えてほおかむりしたメディアと、その無責任を批判するメディアの両方が存在していた。『文芸春秋』が批判したようなラジオ放送の態度は、日本放送協会が発行する雑誌『放送』の戦中における扇動文や、戦後復刊第一号の巻頭言を引用して示されている。特に巻頭言からの引用が興味深い*3

「開けても暮れても、国民への叱咤と、号令と、そして残酷な激励との声を嗄らして歇まなかつた。」

「嵐は去つた。頑迷な指導者の重圧の中に一切の自由を奪はれてゐた国民は、初めて個々の生命が個々の血肉に戻つてきたことを各自に感じた。連合軍の進駐に次でその司令部の前に、張りぼて国家主義は敢なく潰え、虐げられてゐたものが頭を抬げ、隠されてゐたすべてのものが明るみに曝され、自由な批判・掣肘なき意見が一時に百花の乱れ咲くが如く氾濫した。」

公的な雑誌として、戦争扇動を事実と認めていることは重要な一方、どこか他人事のように感じられる論調であることも確かだ。著者の指摘するように、巻頭言が書かれた時には進駐軍の管理下にあったことが、事実を認めつつ切断処理する論調に繋がっているのかもしれない。


しかし著者は『文芸春秋』によるメディア批判を評価しない。先に引用した復刊第一号後記に対して、下記のような論評を行っている*4

これは、いささかでも権力に対して抵抗し、可能なかぎり自説を曲げなかった者の口にする言葉である。

しかし、この号のどこを開いても読者=国民に対する謝罪は一行もない。それどころか、自らの戦中についての具体的な反省すら書かれてはいない。

戦時下の放送が、「本土決戦を強調した」のも事実なら、敗戦直後に「民主主義を高調してゐ」たのも事実である。しかし「アナウンサー」という部分を『文芸春秋』と置きかえてもこの文章はそのまま整合することにまちがいはないだろう。念のために、この号の前号、つまり戦時下の一九四五年三月号の後記の一部分を左に引用してみる。
「今や我等の全存在はこの大みいくさの戦場にしつかと立ちはだかつてゐるのである。前線将士と同じ誇りに立ち同じ苦難と喚起を頒ち合う今日の事態を、我等は敢闘一本に貫くことを誓ひ合はうではないか。」

なるほど著者が酷評するように『文芸春秋』のふるまいには言葉を失う。戦争に加担した過去を他人事のように記述する問題よりも、さらに責任を胡散霧消させてしまう悪質さだ。
メディアの戦争責任を指摘するという、それ自体は重要で大切な言論の影に隠れて別の戦争責任から注意をそらそうとする先述した問題は、敗戦直後から存在していた。メディアの戦争責任を指摘する時に別の戦争責任へ言及する義務があるわけではないが、あたかもメディアや大衆のみに責任を負わせるような論調には注意しておこう。


最後に余談めくが、メディアから少し離れた話もしておこう。現在の社民党に遠く繋がる戦前の社会大衆党が、徐々に親軍路線へかたむいていったことは一部で知られている。
そして『戦時下のジャーナリズム』のあとがきにおいて、政党関係の雑誌を入手した著者は、社会大衆党幹部が日中戦争当初に軍とともに南京入城したことを知り、愕然としたという。つまり社会大衆党幹部は南京事件を知っていたはずなのに、戦後に反省どころか言及すら行わなかった。口をつぐみ続けた幹部の無反省ぶりは、現在の政党にも問題として受けつがれているのではないかと著者は批判する。
著者自身も当時は資料を入手したばかりで充分な裏をとっている話ではないが、重要な視点として紹介しておく。

*1:創価学会とかかわりが深い作家だが、一貫して戦争を批判していた雑誌として『改造』等も高評価している。

*2:10〜11頁。

*3:13〜14頁。

*4:10〜11頁。