法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『崖の上のポニョ』の水アニメートは好きではない

地上波放映版を何となく見ていたが、けっこう重要な場面がカットされていたような。もともと合理的な脈絡がないファンタジーが、感覚的な脈絡も無くしてしまった感じだった。
あと、インスタントラーメンが美味そうに描写されていたのが、宮崎監督自身は食にこだわっていないことを想起させて楽しい。宮崎監督を単なるエコ爺と思っている人こそチェックすべし。


それはさておき、エントリタイトルで書いた話について。
あまりにも水滴が大きすぎ、粘性が高そうで、擬人化されていない場面でも「水」らしさが感じられない。絵本のような世界観を狙ったという制作意図もわかるが、どうにも好みに合わなかった。掌編作品『水グモもんもん』ならば、オノマトペまで視覚化されるような世界観だから、水が古典的な表現でも楽しんで見られたのだが。
そういえば、宮崎駿長編映画として前作にあたる『ハウルの動く城』の、クライマックスでソフィーが流す涙滴も大きすぎた。当時は「演出意図なのだろうが良い効果とは思えない」と思ったものだが、近作と見比べてみると近年の宮崎監督が持っている作画志向だったのかもしれない。


戦前の短編映画『くもとちゅうりっぷ』の雨粒などは、意識的に水滴を見せるようなレンズを仮想して作画していて、その現実感に驚くものだが、あくまで限定された演出での話。
そもそも水滴というものは、スクリーンで粒を確認できるほど大きくないという感覚がある。たとえば様々な水のアニメートが楽しめたTVアニメ『NARUTO』第133話のように、水滴の残像を線として描き、その動きや散らばり方だけで水らしさを表現する作画こそ、現実味を感じる。制作のデジタル化が進み、線を様々な色に着色することが容易になった近年、もっと広まってもいい手法だと思う。
考えて見れば、現実で飛ぶ水滴を観察する場面など、雨やシャワー*1くらいだ。そのどちらも、特に作画にこだわったアニメでなくても、水を線で表現していることが多い。『くもとちゅうりっぷ』のように透明で光沢のある水滴がわかる作画こそ、むしろ珍しいものだ。その思考を、水たまりに踏み込んだ時や、砕ける波を作画する時に応用すればいい。


映画『ルパン三世 カリオストロの城』から『もののけ姫』くらいまで、水の表現でも一級だった宮崎作品だが、どうも『ハウルの動く城』以降は悪い意味で古典的なアニメっぽくなっている。作画自体は精度を増し、ハイライトや半透明の影みたいなディテールが細かくなっていることで、逆に不自然さが目につくようになったと思う。他の人はどう感じているだろうか。

*1:一筋の水のように見えるが、実際には無数の水滴が連なっている。