法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

どれだけ打たれ弱いんだ、と問いたくもなる

毎日新聞騒動について、下のようにゲリラ戦にたとえた評を複数見かける。
正規戦にはめっぽう強く、ゲリラ戦にはめっぽう弱い-毎日新聞 - Atzy->getLog()

しかし、メディアという武器は既に一般の個々人に行き渡りました。個々の武器の影響力の違いでいえば、マスコミと個人では圧倒的な差があります。しかし、ゲリラ戦によって圧倒的多数によって展開されることになれば、マスコミの旧時代の戦法では全く歯が立たないようです。

そういった評の正否自体は、さておき。
実際のところ、逆に正面から正攻法で争った場合、毎日新聞批判側はやたらともろい印象がある。


毎日新聞英字サイトコラムWaiWaiが断り書きをしていた件について少し - 法華狼の日記の、kan氏によるコメントから、一部を引用。

このエントリの「前提」や「批判の程度」について、いろいろ釈明していただいてますが、結局のところ、もとのエントリーにおける、
WaiWaiコラムを外国人が信用する危険性を盾とした批判に、大きな疑問符がつく。」というのは、
「批判が存在すること」に対する批判なのか、
「批判の程度が大きすぎる」ことに対する批判なのか、
どっちのことを言いたかったのですか?

毎日新聞批判の妥当性を程度問題で考えているかどうかは、エントリに明記して、コメント欄でも説明したから、横に置く。
そこで不思議に思うのが、「大きな疑問符がつく」と主張する文章に対する解釈が、「批判」のみという点。


あくまで重要なのは、「WaiWaiコラムを外国人が信用する危険性」という争点の提示。「疑問符」とは、検証の必要性がある、といった程度の表現なつもりだった。批判そのものではなく、その前段階にすぎない。エントリの最初に疑問符をつけ、以降の文章で実際に毎日新聞批判の妥当性を考えていく……けして珍しい文章構成ではないだろう。
つまり、「WaiWaiコラムを外国人が信用する危険性」を根拠とする主張に対し、何の検証もなく妥当と認めるわけにはいかない、という文章でしかないわけだ。検証が必要というからには*1、検証結果として妥当性を認める結論もありうる。
結局は、問題のエントリではタイトルで「少し」と注釈したように、確固とした結論を出すまでにはいたらず、疑問符も撤回していない。しかし、流れによっては結論で毎日新聞批判に妥当性を認めた可能性もあった*2


もちろん、「疑問符がつく」という表現は慣用的ないいまわしであって、字義通りな解釈を強制などするべきではないだろう。
しかし……「疑問符」という言葉への解釈として示された選択肢の、両方ともが「批判」だったことには、一つの心情を推測できる。ただ疑問符をつけられただけで、検証の要ありと指摘しただけで、「批判」と受け取ってしまう、打たれ弱さを。
それは、kan氏による別コメントからもうかがえる。

わたしが、このコメントで当初から言っている、ほぼ唯一のことは、「これで、WaiWai コラムを外国人が信用する危険性を盾とした批判に、大きな疑問符がつく。」と、このエントリに明記してあるテーゼがおかしいのではないか、ということです。このテーゼには、少なくとも外形的には、「批判の程度」という観点が一切無いことを改めて確認します。

「大きな疑問符がつく」というだけの表現を、エントリ全体からは極一部にすぎない文章を取り出して、こういう解釈を普通するものだろうか。


ゲリラ戦をしかければ、相手にした正規軍より甚大な被害をこうむることが多い。毎日新聞を批判している者は、ゲリラ戦を戦い抜く覚悟や、自陣営にもたらされる被害を、正しく認識しているだろうか。
新聞社ではなく、同じようにネットでのみ情報を発信している者*3からすると、その方が気になるのだが……

*1:もちろん、検証対象の妥当性を全面的には認めないという点で、批判的に感じられる人も多いだろう。しかし全面的な批判でないことは自明と思う。

*2:文章作業上の実際には、毎日新聞批判に充分な妥当性があるという結論にいたれば、冒頭に戻って「疑問符」周りの表現を書きなおした可能性はある。あくまで仮定の可能性だが。

*3:ほとんどが二次情報で、大した内容ではないが。