法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

学校において「父」「母」ではなく「親1」「親2」といった表記をつかうよう変えたとして、異性婚家族から何の便益が失われる?

文春オンラインに掲載されている山本一郎氏のコラムを読んで、意味のとれなさに首をかしげた。
なんとなく優しくなりすぎて、どんどん壊れていく世界 | 文春オンライン

フランスでは同性婚カップルの心理的負担を考えて学校の書類において伝統的な「父」「母」ではなく「親1」「親2」といった表記にするという法律が可決され、こっちはこっちでどうなのよと感じる部分はあります。逆差別とまでは言わないけど、普通に異性婚して子どもを儲けている家庭の便益はどうなっちゃうの。


フランスでは「親1」「親2」と呼ぶのか、そして途方に暮れる - ネットロアをめぐる冒険
https://www.netlorechase.net/entry/2019/02/19/073000

はてなブックマークを見ると、やはり首をかしげるコメントがいくつかある。

id:haha64 学校への提出書類の親1親2表記で「普通に異性婚して子供を儲けている家庭の便益」なるものが損なわれる場面って具体的に何。 「保護者」って表記とどう違うの。

id:pinkyblue 「普通に異性婚して子どもを儲けている家庭の便益はどうなっちゃうの」←「同性愛者への配慮は、異性愛者であることのメリット感を損なわない程度にしてくれ」とでも言いたげな…まぁこの人らしい相変わらずの意識だ

異性愛の両親がいたとして、「父」「母」という表記を用意されてえられる便益とは何だろう。「親1」「親2」より増える情報量があるとして、男女どちらかの性別くらい。「普通」ならば文化的に名前で推測できるし、必要な局面はそう多くあるまい。
どうしても必要であれば、備考欄などを用意して記述すればいいだけだろう。その手間を省略するくらいのことが「どうなっちゃうの」と問いかけるほどの便益といえるだろうか。


ここで山本氏が紹介しているid:ibenzo氏のエントリへのはてなブックマークを見れば、「親1」「親2」といった表記による便益はLGBTに限らないという指摘が複数ある。一部を紹介しよう。
はてなブックマーク - フランスでは「親1」「親2」と呼ぶのか、そして途方に暮れる - ネットロアをめぐる冒険

id:tenkinkoguma 保護者1、保護者2のほうが祖父母やおじおば、後見人なんかも含めることができて違和感がない。できれば人数も何人でも選べるようにしてたらひとり親家庭も救われる

id:toakai 養育者の数が問題なだけの記入欄なら親1親2でもいいんでは。実際は各家庭で好きに呼べばいいんでしょ?うちは生後すぐ私が昼仕事で夜大学院だったんで息子は夫をママって言ったり混ざってパマって言ったりしてたわ。

id:palop 未成年者の法的保護者として、保護者1(実母)保護者2(継父)保護者3(実母の母)保護者4(実父)保護者5(実母の親友)…みたいに複数の大人が関わる権利を持てたら、虐待なんかも減りそうなのに、と思っている。

両親が異性愛者であっても、「父」「母」という表記におさまらない事例はあまた考えられるし、実際に存在している。保護者が親ではない状況も多数ある。
異性愛者の「父」「母」が両親の家庭でも、たとえば女性が収入をあげて男性が主夫を担当している場合を想定してみよう。そこで学校から家庭にいる親へ連絡しようとする時、「親1」「親2」といった表記は「父」「母」より情報量があると考えられないだろうか。


少数派が不便な状態から多数派と対等なくらい便益をえて、おかげで多数派もいくらか便益が増す。「父」「母」という表記をあらためることは、そういう事例だろう。情けは人のためならずとはよくいったものだ。
そこで多数派の便益はどうなっちゃうのと問うことは、既得権益を守る意味すらなく、便益の格差を維持するために多少の不便を我慢することになる。そのような狭量な考えより、優しさで世界を壊すほうが良くないだろうか。

はてなブログProにようやく登録

googleアドセンスの審査が2週間かけてようやく通ったので、あわせてはてなブログ側の広告を非表示化した。
最初はただ登録するだけでいいとかんちがいしていたが、わざわざ詳細設定しなければならないのが地味にめんどうくさい。
原因がわからないこととして、貼った記憶のない広告がブログのあちこちにランダムで表示される。自動広告というものがかかわっているらしいが、何をどう直せばいいのか、よくわからない*1


ついでに、余白が大きすぎたため、余白が少なくシンプルなデザインテーマを探して、サイドバーの位置を変えるなどした。
文章の読みやすさは格段にあがった気はするが、行頭一字下げがおこなわれないので、はてなダイアリー時代とは印象が異なる。

*1:追記。どうやらタイトル下に広告が自動で表示されるコードを実験的にはりつけてみたものの、審査がとおるまで空白表示すらされなかったため、それを忘れたまま急に表示されて驚いた、という情けない真相だったようだ。

反自虐史観として司馬史観が利用された時代も遠くなりにけり

少し前、truetomb氏による下記ツイートを見かけて、いささか驚くと同時に感慨深く思った。


司馬史観」って司馬遼の小説を史実だと思ってる人をバカにするときに使う言葉だと思っていたけど、崇めるときにも「司馬史観」って言うのか。

歴史修正主義」と同じように、自称が蔑称に転化しただけでなく、もともと自称であったことすら一般には忘れられていたわけだ。


かつて、新しい歴史教科書をつくる会と、その源流となった自由主義史観研究会は、司馬遼太郎作品の歴史認識を現実にとりこもうとしていた。司馬作品の明治観を批判する斎藤美奈子氏の記事を紹介しよう。
【第94回】明治150年にあたり、「司馬史観」を検証する|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま

私は忘れない。歴史修正主義の発火点ともいうべき藤岡信勝自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』が〈私たちの考えでは亡くなった司馬遼太郎さんの「司馬史観」も自由主義史観と同じ立場にあります〉と巻頭言で述べていたことを。

自称的に用いている実例として、ちょうど保守派に転向した時期の藤岡信勝氏が、そのまま司馬史観を賞揚するタイトルで授業改革案を編集している。


それでも上記ツイートだけならば一個人の認識にとどまるが、能川元一氏による下記ツイートには、新鮮な味わいがある。

よりによって、新しい歴史教科書をつくる会の公式アカウントが、史実よりの立場から司馬遼太郎作品の虚構ぶりを指摘している。


坂本龍馬亀山社中発足に立ち会っていない ・高杉晋作徳川家茂に「いよぉ征夷大将軍」と声をかけていない ・ドイツ軍人メッケルは関ヶ原布陣図を見て「西軍の勝ち」とは言っていない ・乃木希典への一面的な評価 などなど。 少しはご自身でも調べられたらどうかと思います。

反論されているnonbiriking氏のツイートへさかのぼると、作品映画化の報を受けて、つくる会アカウントが反応していたこともわかる。


こういうのは具体的に言って頂きたい。坂の上の雲ひとつとってもそうだが、明治=暗黒時代かのような史観全盛の時代に一石を投じたのは間違いなく司馬遼太郎。国民に歴史への関心を呼び起こすには貴会の百倍役立っていると思いますが。司馬のおかげで迷惑を被っていると言わんばかりの態度はどうかと。



『峠』に続いて『燃えよ剣』の映画化も決まり、平成の終わりとともに司馬遼太郎ブームが来てるのでしょうか?
司馬氏の小説の内容の全てを史実のように信じこんでいる方は未だ少なくなく、その国民への影響力は歴史教科書に関わる中で大きな壁のように感じることもあります。
司馬氏の存命時から比べ、歴史研究は進展しているわけですから、映画化に当たっては原作の魅力を生かしつつも最新の研究成果が一定程度反映されると良いなと思います。

念のため、司馬作品における明治像の明るさは、あくまで昭和の暗さをきわだたせて批判する演出であった*1。それゆえ戦前戦中の全体を美化しようとする自由主義史観といずれ衝突することは当時から予想されていた。
しかし、いくら内部対立をくりかえして教科書保守化運動においても傍流になったとはいえ、つくる会司馬史観を大きな壁と表現するようになるとは思わなかった。こうして歴史は「修正」されていくのだろうか。

*1:ノンフィクション的なエッセイ等で見せた現実の歴史認識の話はわきにおく。

『オバケのQ太郎』の「国際オバケ連合」が封印された理由は「黒いオバケが出てる、それだけ」ではない

 まず、『ちびくろサンボ』が一時期に封印された理由は「黒人を黒く描いたこと」ではない、と指摘するツイートがあった。

 復刊を訴える書籍は当時に読んだが、たしかに否定も肯定もさまざまな理由が語られていた。

『ちびくろサンボ』絶版を考える

『ちびくろサンボ』絶版を考える

 黒人のカリカチュアとして主に批判されていたのは、口の大きさや唇の厚さなど。「サンボ」という言葉が、書かれた時点とは異なる文脈をもった問題なども論じられていた。
 それとは別に、『ちびくろサンボ』という作品そのものが著者の表現とは異なるかたちで出版流通し、それが低評価をまねいたという指摘もある。


 対する反論として、「黒人を黒く描いたこと」そのものが抗議されて表現が封印された事例をあげようとするツイートがあった。

 生まれる前のことと書いているので、おそらく伝聞を記憶違いしているだけだろうが、リプライツリーには同意があるだけで反論がない。


 単純な話として、「国際オバケ連合」では多様な人種になぞらえて多数のオバケが登場しており、当時の商品には「黒いオバケ」も複数いる。
「国際オバケ連合」復活! - 藤子不二雄ファンはここにいる

 批判の対象となったのは、左下にいる「ウラネシヤ代表のボンガ」。暑い国から来たボンガは、寒い国から来たエスキモーのオバケのアマンガと対立する。
 そこでアマンガがQ太郎に対して、ボンガは「バケ食いオバケ」であり「人間でいえば人食い人種」だとふきこみ、昔のことだとボンガが反論する。ここまでは劇中人物が誤った偏見を語った描写ではあるが、ボンガが今もオバケを食いかねない描写もギャグとして出てくる。
 この表現が封印されるべきかは別問題として、「黒いオバケが出てる、それだけ」にとどまる描写でないことは明らかだ。


 また、わずか家族3人の団体による抗議は、圧力としては弱い。むしろその抗議もまた表現の自由のひとつと考えていいだろう。
 その抗議に妥当性がないのに作品が封印されたのであれば*1、まず批判されるべきは過剰に委縮した出版社ではないだろうか。


 ちなみに藤子・F・不二雄は作品の封印で委縮するどころか、カニバリズムをモチーフとして選びつつけ、異なるベクトルで傑作の短編2作品を遺している。

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (1)

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (1)

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (4)

藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 (4)

*1:旧『オバケのQ太郎』の場合は、藤子不二雄がコンビとして実際に共作していただけでなく、トキワ荘の漫画家たちによる事実上の合作であったため、著作権などの混乱が作品全体の封印された理由と考えられている。旧作は「国際オバケ連合」に限らず復刊されなかったが、コンビ解消後の藤子・F・不二雄単独作品は封印はされなかった。

『相棒 Season17』第13話 10億分の1

ビルから転落死した女性が、冠城の名刺を持っていた。何かを悩んでいる女性を直前に見かけて、相談に乗るといってわたしたのだという。
その女性はネットカフェで寝泊まりし、フリマアプリを使ったインターネットごしの転売でしのいでいた。そこにヤクザのかかわりも見えてくる……


いかにも「メルカリ」を思わせる架空アプリ「ウルカエール」を舞台に、現在のフリマアプリ市場の光と闇を描いていく。ひさしぶりにこのドラマらしい、インターネットの多用な側面を描いて美化も悪魔化もしすぎない良さを感じさせた。
さまざまな人物と安易に出会ってしまうことから、ヤクザの受け渡しの行程に利用されもする。一方、フリマをとおした出会いでも大切なコミュニケーションなのだという考えも肯定する。
苦しい人々の現状によりそった名作「ボーダーライン」を思わせる部分も多いが、登場人物がポジティブだったり、転落死の細部を推理していく展開が細かかったりして、印象はけっこう異なる。
女性たちの嫉妬と愛情をめぐる物語として、必ずしも好みな作りではないが、よくできていると感じられた。


ミステリとしては、手がかりを序盤に露骨に見せたことで、真犯人は最初からあからさまだと思ったが、少しずらした真相なのも良かった。
現場にあったと思われる転売物の正体がけっこう意外かつ納得できるもので、それが死の状況にもかかわっている。