ジャングルのなかで、雌のゴリラがツリーハウスを見つける。無人のようだったが、人間の赤子がひとり残されていた。そこを襲撃してきた豹からゴリラは赤子を守り、ゴリラとして育てていく。
周囲との違いを気にしながらも赤子は大人へと成長し、ジャングルをとびまわるようになったが、そこにゴリラ研究をおこなう父娘の探検隊がやってきた……
1999年のディズニー映画。3DCGをつかって背景を動かす手法を全編にわたって活用した作品という記憶どおりのアトラクション的な作品。
血統よりもたいせつな親子のつながりを描いて、そのための障害となっていた雄ゴリラが最期にターザンを息子と認める結末など、安易な貴種流離譚だった『ライオン・キング』*1よりは好みではあった。人間がジャングルの王になるわけではなく、醜いアヒルの子のように肉体的には劣っていて、道具をつかって他のゴリラより優れた活動をするようになっても自然に優越することはないという抑制も悪くない。ジェーンも自立してターザンと対等になろうとする女性として魅力的だし、活動的なキャラクターデザインも良い意味で日本のアニメのよう。最大の敵がむかえた顛末など、流血を描写できないかわりの死の暗示描写も意欲的なのだが……
……ゴリラに育てられた子供の成長ドラマに終始したため、物語のスケールが異様に小さい。古典的な物語の時代にあわないところを削ったかわりに、新たな魅力を追加することができなかったのかもしれない。ターザンとジェーンが別離を選択することをやめてジェーンが野生化するオチも、特に良くも悪くもない。
小さすぎるスケールは舞台にも原因がある。類人猿と人間の親と子の物語が重層的に配置されて、赤子ターザンが成人するまでの時間経過も描かれているのだが、海辺の森という小さな舞台ですべてのドラマが完結しているし、さほど強くもない敵から延々と逃げまわるだけの描写がくりかえされる。
ターザンが年上の雄と戦って首をしめて倒すことが違ったかたちでリフレインする構成は悪くないが、後者の雄は自然を収奪するだけの小物にすぎないところが惜しい。ラスボスらしく家父長制の権化のようなキャラクターにすれば、もっとドラマとして味わいが増したと思う。
まるでデジタル技術プロモーションを優先したかのように親子の距離を描く場面が少なく短い。残念ながら、このアニメーション技術は以降の作品からは失われていき、吸収したピクサーなどの全編3DCG作品へ少しずつ入れかわっていくことになるが。
しかも、たしかに手描き作画は安定して動きつづけるし、1999年の時点で現在でも質感やモデリングに違和感のないCG背景動画はディズニーの技術力を感じたが、メリハリがないので印象は単調になっていく。ターザンがツタにつかまって振り子のように移動するだけでなく、樹皮がなめらかな木をすべって移動する斬新な描写はフェティッシュで良いのだが、長編アニメならば他のアイデアも見たい。
あと、この時期のディズニーはデジタル技術で光と影の境界線にグラデーションをかけているが、手間ひまをかけているのに不思議と安っぽい印象がある。
*1:アニメ版と物語はほぼ同じな実写版の感想で不満を書いた。 『ライオン・キング』 - 法華狼の日記