法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『らせん』

監察医が旧友の変死体を解剖することになった。その旧友は未来を見たり心を読むような能力をもち、何かを調査しながら心臓麻痺で死んだらしい。胃の内容物にあった紙片の数列から、監察医は暗号を読みとる。それはDNAをプレゼントするという内容だったが……


鈴木光司のホラー小説シリーズ2作目を1998年に映画化し、1作目の映画版*1と同時上映。映画以前に1作目を2時間ドラマ化した飯田譲治が監督をつとめた。

前作がハイテンポなタイムリミットサスペンスで呪いの謎を解いたのに対して、こちらはダウナーなエロティックスリラーのように死者と生者のかけひきを描く。
前作では顔をほどんと隠して非人間的な雰囲気をたもった貞子だが、こちらは素顔も写真にはっきり映って、ビデオから出てきて裸体で主人公に性行為をせまる。よくインターネットでネタにされた貞子の萌え化が、実は同時上映作品の時点でおこなわれていたわけだ。それが逆に先行的な描写として面白かったし、同時に前作を楽しんだ観客にとって雰囲気が壊れたことも理解できる。


とはいえ、当時の不評意見が理解できないくらい、別スタッフでありながら前作と設定や撮影に統一感が感じられるし、特殊メイクなどの映像の見どころも多い。テロップを排して画面反転をおこなわない演出方針は前作より好みだった。
パラサイト・イヴ』のようなバイオSFホラーが流行していた時期。原作小説はそれぞれ良さがあったが、映画だけを比較するなら『らせん』のほうがずっと良い。映画『パラサイト・イヴ』が忘れられたことに不思議はないが、『リング』との相対的な低評価と後のシリーズとの断絶で映画『らせん』が忘れられていることは少しもったいない。
特に良かったのが行方不明者の変死体がひきあげられる場面。不思議と『ダーティハリー』の1作目を思い出した。全体的に恐怖を感じづらい映画だったが、この場面だけはそこまでの閉鎖環境における恐怖と正反対の、白昼のもとで無雑作に映される死体に異様な雰囲気があった。死体がほとんど見えないことも想像力を刺激した。
前作の設定変更を受けて、最後の会話で違う味わいが生まれていた*2。1作目の結末を台無しにするように前作主人公が2作目で死んでいることは原作どおりなのだが、死んだことも一種の救済ではなかったかと思わせる。
ただし死者が復活する経緯について、遺伝子に記憶がきざみこまれているという終盤の説明台詞は、いくらなんでも無理を感じた。原作では文章量をつかって説得させられた記憶があるのだが。尺不足の映画では、遺伝子で肉体だけ再現して、脳細胞に人格を念写で転写するといった説明にするべきだろう。


また、『らせん』にはバイオSFとは異なるホラーとしての読みどころが原作小説にはあって、それを映画という媒体では構造的に再現できない問題は解消できていなかった。

まず、呪いのビデオを視聴するだけで視覚をとおして遺伝子が肉体に入りこんで、ウイルスにおかされる設定が出てくる。それを延長するように文章情報を読みとることでもウイルスが発生することがわかっていく。文章を読むだけでもウイルスが発生する設定は、映画ではビデオを見ていなくても呪われた謎の答えとしてつかわれた。そして映画前作で起きたことを『リング』という小説として発表するという会話で楽屋オチにもなる。
しかし文章だけでも呪われる設定は、小説媒体で発表された原作においては、読者を物語世界にさそいこむ効果がある。1作目を読んだだけの読者も呪われているのだと説明するのが2作目のホラーとしてのポイントなのだ。この恐怖は文章だけで呪いのビデオを説明する小説1作目では表現できない。
逆に映像化すると、1作目の時点で呪いのビデオは観客の視覚に焼きつくこととなる。現実に虚構が侵食する恐怖はその時点で生まれる。その直後に文章によっても呪いにかかると語られても、観客は前作以上の衝撃を感じることができないわけだ。

*1:hokke-ookami.hatenablog.com

*2:ここは原作を読んだのがかなり昔なので、読み返すと映画と同じ印象かもしれないが。