法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『五色の舟』

十五年戦争の末期、異形の肉体をもった五人が、見世物小屋の一座として芸を売っていた。
街中に係留したボロ舟で生活し、懇意の医師から診察される日々。表向きは興行が許されない時代だが、それゆえ秘密裏に資産家から芸を求められ、世間よりは暮らしに余裕があった。
ある日のこと、一座は人面牛「くだん」を仲間にしようと遠出した。しかし、たどりついた岩国には日本軍と医師がいて、「くだん」が存在しないかのようにふるまう……


津原泰水による同名の短編小説を原作として、近藤ようこが単行本一巻で漫画化した作品。身体障碍者による興行と戦争末期の悲劇をモチーフにして、歴史を変えたいという願いと歴史を忘れまいとする祈りの葛藤を描く。

近藤ようこの作画は、描きこみの少ないラフな筆致で、身体障碍者をいきいきと見せていく。ただラフといっても線に迷いはなく、暖かく柔らかい。
時代の空気まできちんと再現しようと取材しつつ、それが前面に出ないよう抑制している。悪趣味になりかねないモチーフを、きちんと美しさも醜さも描きつつ、親しみをもてる漫画として成立させていた。
そのような情景で、満を持して全身をあらわした「くだん」の異形表現も印象的。似た手法として漫画版『風の谷のナウシカ』で道化師に憑依した墓所の主を連想したが、この作品では描線から異次元の存在と感じさせる凄みがあった。


さて、歴史的な悲劇が起きていない並行世界に登場人物がたどりつくが、それゆえ読者は歴史的な悲劇が起きた現実を直視せずにいられない……これは歴史改変パターンの一類型といっていいだろう。漫画に限っても、清水玲子の『月の子』等の先例が思い出される。
また、この作品はメインキャラクター五人の肉体を弱者ではなく超人として位置づけている。原作者あとがきによると、手塚治虫の『W3』へのオマージュとして『ワンダー5』というタイトルも考えているという。発表時期こそ前後するが、幸福な並行世界を望む超人を描いたTVアニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』を連想するところだ*1
そこで並行世界に行く方法として、未来を予知する妖怪「くだん」が、SF的な設定をもつ存在として介在してくる。その並行世界への主観的な移動の表現がおもしろくて、物理的に移動していない情景は狂気と紙一重だ。


一方、主人公は舟に乗って移動する夢を見て、並行世界にいく家族との別れを予見する。一座をつくった“父”が元女形として医師と密通していることが、ここで通奏低音として響いてくる。
先天的にマイノリティな肉体をもつ一座だが、立ちあげた“父”だけは壊疽で両足を切断した後天的なマイノリティ。より良い家族を手に入れれば、疑似家族である一座を捨てかねない。「くだん」による平行世界への逃走も、“父”と医師だけですませてしまうかもしれない。
しかし、そんな主人公の恐れはクライマックスで反転する。“父”は一座を捨てたりはしないし、医師も一座ごと愛そうとする。思えば、“父”が男性の医師と密通しているということは、それは両足切断とは別個にマイノリティだ。そして医師もまたひとりのマイノリティといえる。
いわば“父”に見えていた元女形は“母”であり、医師こそが“父”だった。密通に対して主人公がわだかまりをいだいたことも、“母”の愛が“父”にとられるという“子”らしい心情だったといえるだろう。つまり家族は壊れてなどなくて、ワンダー5はワンダー6だった。


そうして血ではなく魂でつながった疑似家族が協力し、戦争という状況と軍事国家の抑圧にあらがって勝利する。
それが美しい虚構と痛感せざるをえない物語でありつつ、これこそあるべき理想と確信させる物語でもあった。

*1:原作をかねている脚本家の會川昇は、代表作の映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』等で、異世界に焦がれる心情を批判的に描きつづけてきた。