法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

劉燕子氏と安田峰俊氏の対談で「リベラル」を批判する根拠が、勝手な期待を裏切られた体験談ばかりな件について

現代ビジネスでの対談によると、「親中」と「嫌中」のどちらかの主張でないと日本のメディアに掲載されにくいという。
「嫌中か親中か」でしか中国を語れない、日本の閉塞(安田 峰俊) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
まず前編で、安田氏は下記のように語っていた。最近の朝日新聞は中国批判を載せているが、他の媒体が少ないという。

リベラル寄りの媒体がそういう冷静な中国批判を載せる受け皿になってもいいと思うのですが、実際は必ずしもそうなっていません。さすがに『朝日新聞』あたりは、最近かなりこの方向で個性を発揮していますが、いかんせん二番手以下のパイが少なすぎます。

応じるように劉氏も「リベラル」が中国の問題点を見ないと主張した。

右翼の人たちの嫌中言説か、リベラルの人たちの「中国の問題点は見ないで、お隣さんだから仲良くしよう」という立場か、どっちかに寄らないとモノが言えないんです。

しかし前編で批判されているのは、「嫌中」な内容で執筆するよう出版社に求められた体験など。「リベラル」の問題は後編にもちこしとなった。


そこで後編を読んだところ、劉氏による「リベラル」への批判は、そもそもメディアに掲載する時の体験ではなかった。
「裏切者」「スパイ」と呼ばれて…日本でいま、中国を論じる難しさ(安田 峰俊) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
まず、劉氏とリベラルに距離が生まれたきっかけは、書籍を育鵬社から出したことにあるという。

石平さんとは同じ関西在住の民主派の中国人として仲良くしていただいているんです。まず出版社から彼に、天安門事件の書籍のオーダーが来たのですが、「この問題は劉燕子が詳しいから一緒にやろう」と声を掛けてくださいました。

私と石平さんは同世代で、若いころに文化大革命天安門事件に直面しました。私たちの人生の根本にある価値観は、中国のこうした政治的な事件に対する義憤や悲しみから生まれているんです。

出版したとたんに、親しくお付き合いしていたリベラルの日本人グループからそっぽを向かれました。それまでは私に非常に好意的だった人たちで、劉暁波や中国の民主化運動に関心を示してくれていたことを本当に嬉しく思っていました。

書籍ひとつで距離をとられるとは何が理由かと思えば、ツイッターでよく問題発言を見かける石平氏が共著者だった。

反 旗――中国共産党と闘う志士たち

反 旗――中国共産党と闘う志士たち

その主張は「嫌中言説」という表現にはおさまらず、現状で民主化運動の支えになる人物だとも思えない。ふたつほどツイートを紹介する。

極限状況における行動など、多くの事例をひもとけば個々人によって異なるとわかるはずだ*1。人種や国籍での区分を示唆する石平氏の発想は差別主義でしかない。

差別的な言辞はひとことではなかったし、発したのは暴力機関の末端であった。しかも差別と断言できないと閣僚が評価して、その評価を訂正する必要はないと閣議決定された*2。現地の民意を押しつぶしていく日本政府を正当化するようでは、民主主義の立場から中国政府を批判することなどできまい。
平氏のような人物と共著を出せば、それだけで批判されたり距離をおかれることは予想するべきだろう。のちに新雑誌『夢・大アジア』で執筆したことについては、安田氏からも「かつてはヒューマニストだった劉燕子さんも、ついに“あっちの界隈”に行っちゃったか」と思ったといわれている。

夢大アジア 創刊号

夢大アジア 創刊号

平氏については、安田氏も「近年の著書の過激な題名やツイッターでの言説のイメージ」と批判的に言及しつつも、初期の著作を根拠に「本来は冷静な知識人」と弁護し、共著についても下記のように評した。

対中国憎悪を煽るような内容ではなかった。中国の反体制文学者や民主活動家の伝記を丁寧に紹介した、知的に誠実な本でした。

しかし共著『反旗 中国共産党と闘う志士たち』を実際に読むと、冒頭から民主化より日本の国益を優先するかのような主張をおこなっていた*3

彼らの政治的理想と運動のすべてが、自動的に日本の国益と一致してくるかどうかはまた別の問題である。日本と中国との間には、いわば体制の問題とは関係無しに多くの隔たりがあり、国益上の深刻な対立がある。はっきり言って、もし中国人自身が膨張主義中華思想を放棄しない限り、もし中国人自身が独善的な自己中心の歴史観から脱出しない限り、共産党独裁体制がなくなった後の中国、あるいは民主主義国家となった後の中国は、依然として日本にとっての敵である可能性が十分にあるのである。

そして日本と利害が衝突している実例として、中国のかわりに韓国への憎悪を煽るような表現が出てくる。

すでに民主主義国家となったはずの韓国が、今でも日本に対する理不尽な敵視政策をとっているのはその実例である。

国益を優先する枠組みでは、不満をもった民意を抑圧する一党独裁政権を歓迎しかねない。日本政府にとって、軍事独裁時代の韓国がそうだった。
この共著をきっかけに距離をとられたことを、「閉鎖的なムラ社会」「日本人のこの手の党派意識」という劉氏だが、自身の党派性を自覚していないのだろうか。「いたるところで踏み絵を踏まされる」ともいうが、少なくとも石平氏との共著は自身が選んだ踏み絵のはずだ。発表する媒体に制限がある劉氏の立場もわかるが、その媒体を選択した責任が完全になくなるわけでもないだろう。


前後するが、劉氏は雑誌の執筆を断られたことをもって、中国の問題点についての理解や関心がほとんどないと主張する。

『環』No.44(2011年冬号)の「中国の民主化劉暁波」特集で、いわゆるリベラル系の大物知識人の何人かに原稿を依頼したんです。とあるノーベル賞作家の方をはじめ、戦後の日本の代表的な進歩的知識人の方々に。……でも、ことごとく断られました。

理由も言わず、とにかくダメだということなんです。しかも、かのノーベル賞作家に至っては、「執筆依頼予定のところに自分の名前があるが、これを削ってくれ」と注文してきたのです(『環』No.44 「編集後記」)。これが日本のリベラルの姿でしょうか?

普段は民主主義を口にして「世界市民」を標榜しているのに、中国の弱者や民主化運動に対する理解も関心はほぼゼロなんです。

しかし言論の自由があるかぎり、発表の機会を選ぶ権利は筆者側にあるべきだろう。それに現代ビジネス編集部も知らない雑誌ひとつの執筆依頼をもって、題材についての理解や関心を判断することができるだろうか。
また、日本のリベラルを批判する文脈から、ノーベル賞作家とは大江健三郎氏のことだと思われる。だとすれば、やはり劉氏の断定には疑問を持たざるをえない。大江氏は2011年2月、朝日新聞で連載している「定義集」において、劉暁波氏の支持を明言していたことで知られている。

定義集 (朝日文庫)

定義集 (朝日文庫)

一流の論説誌であれば、何の基準もなく雑誌の執筆を依頼することはないだろう。ノーベル賞という関連だけでなく、おおやけに支持を公言していたからこそ依頼したという背景だったのかもしれない。より多くの目にふれる媒体で批判を表明していたことは、批判をしたくがないために雑誌執筆を断ったわけではないという傍証でもある。
大江氏は、天安門事件によって米国へ亡命した鄭義氏を高く評価していることでも知られている。2003年に対談したこともあった。
https://www.toho-shoten.co.jp/beijing/bj200310.html

大江氏は「批評的なユーモアとともに語る力、それが鄭義さんの人格であり、小説の個性だ。鄭義さんは20世紀から21世紀はじめの中国を代表する作家として、記憶されるにちがいない」と応えていた。 

他にも天安門事件の被害を受けた作家と交流したり、中国政府による拘束に反対する署名に参加したりもしている。
どれも民主化を強く求める立場からは不充分かもしれない。しかし劉氏のいうノーベル賞作家が大江氏のことだとすると、誤解をまねきかねない説明になっていることはたしかだ。大江氏が中国批判をおこなっているという情報をさえぎることで、批判の効果をさまたげかねない問題すらある。


誤解をおそれずにいえば、劉氏と安田氏の対談そのものは、興味深い内容ではあった。出身国を批判する外国人作家の難しい立場は、日本人読者の立場でも葛藤を感じずにはいられない。
しかし根拠のほとんどは個人のせまい体験にとどまっており、その見解も現状を選んだ自己弁護のきらいがある。きちんと留意をしたうえで、ひとつの情報として受け止めるべきだろう。