法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『風立ちぬ』

丸眼鏡の子供が飛行機を設計し、乗りこんで飛びたった。しかしその夢はゆがんでいき、ついには墜ちていく。
やがて成長した子供は設計技師となり、新しい飛行機をつくろうとする。戦争へつきすすむ国家に乗ることで……


堀越二郎の半生と堀辰雄の小説を混ぜあわせた宮崎駿監督の漫画を、自身の手で2013年にアニメ化した作品。スタジオジブリ色彩設計として名をはせた保田道世の遺作でもある。
映画『風立ちぬ』公式サイト
描線の味わいを活用した現代的な作画は、試験機が分解して墜落する場面くらい。動きの粘り気を増しつづけたアニメーションは濃密で、現代の潮流に反しているからこその迫力がたしかにある。
ゼロ戦開発者を描く物語として、十五年戦争の日本を追認するような作品になるだろうという憶測もされていた。たしかに重慶爆撃の描写は最終的に削られたが、日本軍による都市爆撃らしき場面は残されている。


さて、主人公は飛行機の設計士として、世界に対して心の動きが少ない人物のように描かれている。
前半で印象的な関東大震災でも、主人公は抑圧的なまでに冷静にふるまう。異様に他人への興味が薄い人格だからこそ、声優としては素人の庵野秀明監督が起用されたのかもしれない。
キャラクターと声の出演 - 映画『風立ちぬ』公式サイト
主人公は冷静ゆえに周囲よりも善良にふるまうこともある。路地にいた子供に菓子をあげようとした場面もある。ただし子供にはほどこしを拒否され、友人にも「偽善」と指摘される。
ほどこしが相手の尊厳をうばう問題は、宮崎駿監督の絵物語シュナの旅』でも描写されていた。しかし絵物語と違って、この映画では主人公が相手と対等になるところまでは描かれない。
過去作品において克服すべき課題として配置されたことが、この映画では克服できない問題として提示されていく。


主人公の他者への愛は、最後まで一方的な関係でしかない*1
戦闘機を牛車で運ぶという貧しい国らしい情景を見て、主人公は「牛は好きだ」という。子供へのほどこしも、病んだ妻への愛も、獣に対するそれと大差ない。
そして主人公が心血をそそぐ戦闘機をはじめ、この映画の効果音は人間の声によってつくられている。人工性を強調した効果音は、声優が素人な主人公と、音の印象として似かよっていく。
まさかの人の声!『風立ちぬ』こだわりの効果音はどこから生まれた? - シネマトゥデイ
もともとアニメとは人工的な素材で構成された表現だが、それが世界観としてむきだしになっている。
この主人公の主観でかたちづくられた映画において、人も、牛も、物も、等価なのだ。


もうひとつ、この映画には興味深い男が登場する。
名前はカストルプといい*2、映画の根幹をなす日本の侵略を指摘し、世界を敵にまわした戦争を忘却する未来まで予言する。
そのモデルのひとりは、ソビエト連邦のスパイだったリヒャルト・ゾルゲとされている。
ゾルゲとは - コトバンク

33年《フランクフルター・ツァイトゥング》紙特派員として来日,日本の対ソ侵略防止と日ソ平和の維持を目的として情報活動を行ったが,41年尾崎秀実(ほつみ)らとともに逮捕され,44年死刑に処せられた。

しかし大量のクレソンをほおばる姿を見れば*3、過去の宮崎駿作品に似た場面があることが思い出される。
http://www.foodwatch.jp/strategy/screenfoods/36069

テーブルで山盛のクレソンのサラダを草食動物の如くむしゃむしゃ食べる姿はどこかユーモラスに映る。

そう、『ルパン三世 カリオストロの城』で敵地に潜入して、スパゲッティや肉塊をほおばるルパン三世だ。
http://www.foodwatch.jp/strategy/screenfoods/11303

到着したカリオストロの町のレストランで相棒の次元大介と取り合いながら食べる大皿に盛られたミートボール入りのスパゲティ(絡まり合った謎の隠喩を超えた動きの面白さ!)

カリオストロ公国を懐疑する異邦人がルパン三世であったように、大日本帝国を懐疑する異邦人がカストルプなのだ。


思えば国家の設定からして共通項がある。
カリオストロ公国は、国土や資源こそ小国だが、偽札を製造することでヨーロッパ大陸に影響力をもっていた。
ルパン三世 カリオストロの城 - 作品情報・映画レビュー -KINENOTE(キネノート)

辿りついたところは、地下の造幣工場。金を必要としている世界の権力者のためのニセ札の製造だ。これが四百年もの間、カリオストロ公国が大国から侵略も受けずに存続していた秘密だった。

同じように大日本帝国も、偽札を製造してアジア大陸に流通させ、支配力を高めようとしていた。
登戸研究所とは - コトバンク

偽札工作は設立当初から実施され、5元札から200元札まで総額約45億元分を製造。約25億元分が中国での物資買い付けなどに使われたとされる。

そして少女の心を奪っていった泥棒と同じく、スパイも自動車に乗って逃げ去っていく。
しかしルパン三世と違って、気持ちのいい男は中盤で退場したまま、画面にあらわれることは二度とない。主人公の心が変わることもなく、物語はつづいていく。
この映画の描く日本が客観の不在によって成立していることを、客観を退場させることで明らかにする。そうした歴史の忘却が現代へつづいているということも。


主人公は映画の結末で、夢見ていた設計士および妻に再会し、しかし妻とは別れる。
絵コンテ段階では妻の台詞は「来て」だったが、最終的に「生きて」へと変えられた。
死別した妻は天へと消えていき、主人公は設計士とともに坂を下っていく。その先にある日本は暗く沈んでいる。

*1:あたかも大東亜共栄圏を夢想させた八紘一宇思想のように。1942年の大日本帝国の「撃滅戦の火蓋は切って落とされた」 - 法華狼の日記

*2:トーマス・マン魔の山』の主人公から引いた名前だが、そもそも劇中で台詞として『魔の山』を引用していることから、偽名と考えるべきなのかもしれない。

*3:描写自体は、堀辰雄『エトランジェ』で芹をほおばるイギリス紳士の引用と思われる。堀辰雄 エトランジェ